2016年

7月

16日

森鷗外-Part4-『書くこと』について

***Part3より続く***

 

このブログは、5年前にある人の勧めで始めた。

最初は何を書いたらいいものか、億劫に思う気持ちと続けられるかという不安、読んでくれる人などいるのだろうかと限りなくマイナスに考えていたが、

「田崎さんの好きなものを書けばいいんですよ^ ^ 」の一言で俄然やる気が出た。「えっ? 好きなこと、書いていいの?」

 

昔から私は変なヤツだったと思う。

私が好きなもの、興味がある事、面白いと思った事、いろいろ考えた事なんかを話し出すと、だんだん相手は無口になる。

私の話が滔々と長いのと、妙に熱を込めて力説してしまうので、相手がしらけて退屈してしまうのだ。

話題もたぶん一般的じゃない。普通の人が、なんでそんな事を?と逆に驚くような事、例えば『母系社会と父系社会はどちらが幸せか』とか(笑)、聞く人にとってまったく迷惑千万な話だ。

思い返してみると、私の興味は随分と偏っていて、しかもどうでもいい事を無駄に深く考えてしまう傾向がある。

 

この重大な欠点に気付いてからは、だいぶ言動に気をつけるようになった。(それでも時々やらかしてしまうが、、。)

自分の好きなものについては、気を付けてあまり話さなくなった。

 

だから、ブログを書き始めた頃はそれはもう嬉しかった。

考えたり思ったりした事を文字にする。なるたけ正確に、嘘や誇張がないように簡潔な文章にする。

その作業がとても楽しい。

頭の中に散らかった思いや考えがまとまっていくのは、本当に爽快で気持ちがいいのだ。

 

そして近頃、今までとちょっと違う「書く事の楽しさ」を発見した。

 

文章を書く事は、色や形や大きさの様々な小石を使って一枚の多色濃淡の貼り絵を作るような作業だと思う。

絵に嵌め込む為の小石を、澄んだ水の小池の底からあれやこれやと拾い上げる。どんなに色が美しい小石でも、大きすぎたり形が合わなければ池に戻すしかない。

その拾い上げたり戻したりは、文章を書きながらどの言葉を使おうかあれこれ悩むのと似ている気がするのだ。

そして、Jazzの即興演奏で音を選ぶ感覚ともよく似ている。Jazzの場合はほとんど瞬時の選択だけれど、、。

言葉を選ぶ、アドリブのスケールを選ぶ、どちらも選択肢がたくさんあって楽しい。

選んで決める事の繰り返しを、自由に、自分の思うままにできる事がこの上なく楽しいのだ。

 

だから、ブログの記事を書き始める時は、ピアノに向かう時のようなちょっとしたワクワク感がある。

 

今回『書くこと』についていろいろ考えたのは、この3ヶ月ほど、ブログで鷗外について記事を書いてきて、ちょっと面白いことを思ったからだ。

 

遥か昔に図書館で森鷗外全集の書架を見上げた時、その膨大な量に圧倒されて、なんて勤勉で自制心の強い人なんだろう!と思った。恐るべき努力の人だと思った。

その時の驚きは本当によく覚えている。

 

そういう面は確かにあるだろう。

でも、どういう訳か私の頭の中に、ふんふんニコニコしながら机に向かってペンを走らせている鷗外の姿がぽっと浮かんだ。すっごく嬉しそうだ。

こんな妙な事を想像したのは多分、私がブログで曲がりなりにも『書くこと』を始めたからだ。

 

私の『書くこと』が小池から小石を拾い上げる事だとすると、鷗外の『書くこと』は、とてつもなく大きく深い湖の底に、誰も見たことがないような美しい小石が見渡す限りに散らばっている、高い山の頂から湖の底を俯瞰するとぴったりの小石がきらきら光って見える、魔法のように杖を振るとぴゅっとその小石が飛んで来る....(笑)、、てなふうじゃないだろうか。

鷗外の博識さは半端なものではなかったから、冗談ではなく、本当にそんな感じだったかもしれない。

もしそうなら、どんなに『書くこと』が楽しかったことか!

そして、彼の中で生まれる様々な思考は的確に表現され外に出されたのだ。

鷗外にとって『書くこと』は、面白くて愉快な事である以上に、息をするように必要なことだったのかもしれない。

 

私の勝手な思い込みだけれど、ちょっとだけ鷗外を近くに感じて嬉しかった。

 

次回は、文京区千駄木の森鷗外記念館に行きます^ ^

 

***Part5に続く***