太宰治-なぜか混浴について-

最近、太宰治を読んでいる。

 

太宰治は、『人間失格』と『斜陽』を、大学時代に国文学専攻の学生として正しく(?)読んで、以来それきりになっていた。

あまり好きになれなかった。(もちろん『走れメロス』は学校の授業で読んでめちゃ感動したが。)

森鴎外の対極のような生き方をした人で、時代の違いを考えてもとても心が弱い人に思われ、その作品を読もうという気が全くおきなかった。

 

たまたま先日、『きりぎりす』という短編を読む機会があって、ちょっといいな、、と思った。

『カチカチ山』でへぇ〜っと感心し、『東京八景』で妙に感動した。私も人生の苦労が少しは分かってきたってことか、、。

 

今日、『美少女』という短編を読んだ。

そして、ストーリーとは関係なく、えっ?とびっくりした事があった。

太宰治が30歳の時に発表した私小説なのだが、当時、彼は結婚したばかりで甲府市のまちはずれに住んでいた。

 

ある日、彼は妻と一緒に、歩いて20分ほどの温泉に出かける。そこは病気療養の効がある温泉なのだが、普通に混浴なのだ。

”普通に”というのは、作中、太宰や彼の新妻を含め誰一人、混浴という事に違和感を持っていないらしく、みんな平気な顔で湯に入っている。

 


3坪ほどのあまり大きくない湯槽の中で、太宰は、タイトルにある通り16〜18歳くらいの「美少女」に出会い、その裸体のみずみずしい美しさに感激する。

「いいものを見た、」なんて邪気もなく喜んでいるところは、まぁ普通の男性の普通すぎる反応なのだが、、。

 

不躾にじろじろ見ている太宰を咎める人は誰もいない。それどころか、側にいた老爺は「衰弱には、いっとうええ。」とか言って、鉱泉を飲むように親切に勧めてくれるのである。

 

その後の話の展開や、「それだけの悪徳物語である。」なんていう太宰特有の自嘲めいた述懐などがこの作品の面白いところなのだろうが、私はどうにも”普通に混浴”が気になって、いっこう頭から出て行かない(笑)。

戦前(『美少女』は1939年発表 )の日本の風俗が今とあまりに違うので、すんなり受け入れることができないのだ。

混浴というのは江戸時代の話だと勝手に思い込んでいたのもあって、そんなに昔でもない昭和の時代に、混浴が庶民の間で普通にあったというのはちょっとした衝撃だった。

もし外国人がこの事実を知ったら、びっくり仰天するに違いない。

文明国でありえない!と言うだろう(笑)。

 

混浴の歴史なんかを調べてみるのも面白そうだが、それよりも、当時の日本の事を考えてみると興味深い。

このわずか2年後に真珠湾攻撃、こてんぱんにアメリカに負けて『堕落論』なんてものが出て来るくらいに日本人の心が無茶苦茶になっていくのだ。

数年のうちに社会が劇的に変わり、それまでの考え方がことごとく否定されて、人々は誇りも自信も急速に失っていく。

日本の精神文化が、ある意味断絶した。

 

西欧的な価値観が浸透している現代の私たちにとって、戦前の日本はもはや異空間だ。

落語の人情噺や山本周五郎・藤沢周平の世界が、遠い昔のファンタジーに感じられるのと同じくらいに、昭和の日本もきっと、どんどん遠くなっていく。

 

今、”普通”だと思っていることが、数十年後、まったく”普通”でなくなっているかも....と考えるとちょっと寂しい。

既に私が小さかった頃と現在では、近所付き合いでも友人とのコミュニケーションでも、いろいろな事が全く違う。

その一方で、日本人が古来ずっと心に持っているものは、たぶん、どんなに時が経って社会が変わっても変わらない。根っこにあるものは、そんなに変わらない気がする。

考え方は変化しても、心の中まで完全に変わることはないのだと思う。

  

それにしても、じいさんばあさん達と若夫婦、それにとびきりの美少女がみんなで一緒に湯槽につかっているって、何だかもの凄い事じゃないだろうか、、。

想像すると、ほのぼのし過ぎて泣けてくる(笑)。

 

日本はほんと良い国だなぁ....。つくづくそう思う。

太宰治も、だんだん好きになっている。