2016年
12月
31日
土
『2016年』
年の瀬にあたり、この一年を振り返ってみた。
長かったような短かったような、、。
この一年間に書いたブログやFBの記事をざっと見直すと。。
*出不精の私にしては珍しくあちこち出歩いた。美術館や記念館、社交ダンスやロックのライブにも行ったし、美味しいものをいっぱい食べ歩いた。
*今までほとんど考えたことがなかった自分の身体の健康を、ちょっとは気にするようになった。急に痩せて、みんなに驚かれたなぁ。
*近頃、面白い夢をよくみる。夢占いサイトで「ふ〜ん、、」と妙に納得する事もあって、たまに吉夢の場合はその日一日気分がいい。(すぐ忘れちゃうけど。)
*親しい人たちと折にふれ、これまでとは格段に深いレベルの話がたくさんできた。( はっと気付く事があったり今更ながら反省したり、これからまた元気にやっていく力をもらったような気がする。)
*ずっと手探りでやってきた自分のJazzに、ようやくはっきりと目標が見えてきた。
こうして書いてみると、なかなか心身ともに得ることの多い年だったかもしれない。
何より時間がたっぷりあって、気持ちに余裕ができた。( 生徒さんには「先生、もっと仕事たくさんして下さい!」なんてお小言を言われたが・笑)
いかんいかん!ちゃんと日々努力しないと!ってことで、来年の目標。
『もっと仕事たくさんします!.....ん? たくさんしたいです!か?・笑』
オリジナル曲も増やしたいです^_^
今年もブログを読んで頂き、本当にありがとうございました。
どうぞ良いお年をお迎えください。
来年も、みなさまにとって幸せな年でありますように。
2016年
12月
22日
木
鬼平犯科帳
人間国宝・中村吉右衛門さん主演の人気時代劇シリーズ『鬼平犯科帳』が、今月3日の放送をもって終了した。
1989年から全150作。ずっと大ファンだった。
父が生きていた頃は、ビデオにとって家族でよく見ていた。
原作は池波正太郎氏の捕物帳で、江戸時代後期に実在した火付盗賊改方の長官・長谷川平蔵がモデルになっている。
「原作にないものはやってくれるな」という池波氏の遺言で、これ以上は続けるのが難しくなったみたいだ。
オープニングでは毎回、勇ましい捕り物シーンをバックに淡々としたナレーションが流れる。
*** 「いつの世にも悪は絶えない。その頃、徳川幕府は火付盗賊改方という特別警察を設けていた。凶悪な賊の群れを容赦なく取り締まるためである。独自の機動性を与えられた、この火付盗賊改方の長官こそが、長谷川平蔵、ひと呼んで『鬼の平蔵』である。」***
どこか民放らしくない、生真面目なトーンのナレーションだ。
メラメラ火が燃えて、ばったばったと悪者が斬られるめちゃめちゃ派手な捕り物とまったく対照的なのがいい。
エンディングには、日本の四季折々の風景、夏の風鈴売りや冬のそば屋台など町人たちの姿がまるで広重の浮世絵のように美しく映され、ジプシー・キングスの『インスピレーション』がそのシーンにぴったり合っていた。
池波正太郎氏の原作本を読んでいたので、 作品に流れる時代の空気や”男の美学”、密偵たちの人間臭さみたいなものが損なわれることなくちゃんと表現されているように感じて、民放なのに(笑・すみません....)、と感心していた。
本物の「長谷川平蔵」は、徳川家斉の時代に火付盗賊改方の長官だった人で、庶民から「本所の平蔵さま」「今大岡」と呼ばれて非常に人気があった。
罪人の更生の為の施設「人足寄場」を最初につくったことでも有名だ。
幼少の頃から地元のワルとして名前が通っていたらしいが、有能ながら人情味に溢れ、型にはまらない仕事をした豪気な人で、同僚から妬まれたせいで思うように出世できなかったらしい。
小説の中では、盗賊たちから鬼と恐れられる一方、平蔵を慕い手足となって働く密偵たちや部下の役人、妻や友人たちに細やかに心を配る、大胆で厳しいのに温かくて懐が深い人として描かれている。
まさに理想的な上司!ちょっとワルなところもかっこいいわぁ....って事で、男性も女性も絶対にファンになる魅力的な人物なのだが、中村吉右衛門さんは、そんなファンたちの想いを裏切る事なく、もうこの人しかいない!と確信するくらいに「長谷川平蔵」を演じてくれた。
私にとって、「眠狂四郎」の市川雷蔵、「シャーロック・ホームズ」のジェレミー・ブレット、「エルキュール・ポワロ」のデビッド・スーシェと共に、永遠・唯一無二の「長谷川平蔵」の中村吉右衛門になった。
でも「エルキュール・ポワロ」は2014年に最後の作品『カーテン』でシリーズが終わり、市川雷蔵もジェレミー・ブレットももうこの世にいない。
う〜、『鬼平犯科帳』も終わってしまって、この先、何を楽しみに生きていったらいいんだ〜....(泣)。
今は、夜寝る時に、YouTubeで昔のシリーズを順番に見ている。
20年以上前の作品ということで、中村吉右衛門さんはもちろん、多岐川裕美さんも梶芽衣子さんも若い若い!
そしてびっくりするほど綺麗だ。
28年間続いた『鬼平犯科帳』。本当に長い間、お疲れ様でした。
そしてたくさんの感動をありがとうございました!
2016年
12月
03日
土
国際化ー箱根で考えたこと
よく行く三鷹のお店の仲良しなママさんと、箱根に泊りがけで遊びに行った。
登山電車やケーブルカー、ロープウェイを乗り継いで、硫黄の煙がもうもうと立ちのぼる大涌谷から芦ノ湖を望む桃源台まで、箱根の山をホッカイロを握りしめながら大いに楽しんだ。
一面の紅葉や壮大な湖の美しさ、どこでも極上の美味しいものが食べられて温泉もサービスも最高、、日本に生まれてほんと良かった〜、、。
それにしても、電車やロープウェイ・お土産ショップやレストラン、どこも周りが外国人だらけで、日本の国際化をすごく感じた。
だって、銀座や新宿よりも体感密度がめちゃくちゃ高い(笑)。
ロープウェイで一緒だった中国人ファミリーの小学生くらいの男の子が、下界に広がる樹海を見て「アイヤー‼︎」と叫んだ時は、ほんとに中国の人は驚くと「アイヤー‼︎」と言うのだな....と昔、漫画で得た知識が確認されて、非常に感慨深かった(笑)。
お土産ショップにいた中国人の少女( 4~5歳くらいだろうか )が、小さな声で中国の歌を歌っているのがふと聞こえて、その声と姿が抱きしめたいほど愛らしかった。
登山電車の列に並んでいた時、先頭に並んでいたカップルからちょっと離れて私たちが立っていたら、カップルの男性が心配そうに韓国語で話しかけてきた。「どうぞお先に^ ^」と言ったら、安心したのか笑顔で何か言っていたから、きっと順番から外れたか不安だったのだな、、。
帰りのロープウェイでは、シリコンバレーに住む日本人のIT起業家が中東系の友人と一緒に乗っていた。
私がママに、辛坊さんの『そこまで言って委員会』の話をしていたら、「私も見ています。面白いですよね!」と隣りから話しかけてきた。
「私は民主党です。アメリカの民主党支持者は、トランプが勝ったからみんなカナダに移住したい。」と笑いながら言うのを聞いて、日本は安倍さんで安心だなぁ、なんて、箱根の山の上で国際情勢をマジっと考えてしまった(笑)。
東京への帰途で、宮ノ下から箱根湯本までローカルの路線バスに乗った。
山の中をくねくね曲がりながら下るバスに揺られて軽く車酔いになっていると、運転手さんが無線で「⚪︎⚪︎から⚪︎⚪︎地点、イノシシの親子が横断中、注意願います。」と言っているのが聞こえた。
冗談かと思ったら、周りのお客さんたちは”いつも通り”ってな平気な顔をしているから、これは普通に真面目な注意連絡なのだ。
イノシシたちは、よそ者の観光客が昔よりやたら増えてるぞ、用心用心、とかちょっと思っていて、人間たちも、事故がおきないようにそれなりに配慮をしている、という状況かもしれない。
箱根は、地元民にとっても地元動物にとっても、大きく環境が変わりつつあるのだ。
日本はこれからどんどん、外国からのお客さんが増えていくだろう。
訪れる方も迎える方も、お互いが相手を優しく気遣って楽しい時間が持てるようになるといいなぁと思う。
外国からの観光客たちに身近に接して、銀座や新宿でツアーの団体客を離れて眺めていた時とはまるで違う気持ちになった。
2016年
11月
10日
木
まじトラ
「もしトラ」が「まじトラ」でびっくりした。
石破さんも驚きを噛み締めていた、、。(日経ビジネスオンラインより)
日本、どうなるんだろうなぁ。
世界中が慌てて政策会議を開いているはず。
今までとは違う国際情勢になるんだろうか、、。
2016年
11月
05日
土
ハロウィン2016
インターネットではこの時期、渋谷のハロウィン仮装イベントの記事が毎年恒例になっている。
とにかくもの凄い盛り上がりで、写真を見てもみんなの力の入れようが怖いくらいだ。
繁華街にはオレンジかぼちゃとおばけのグッズがあふれ、これでハロウィン・ソングまで登場したらクリスマス以上かもしれない。
まぁイベントの方向性(笑)はだいぶ違うけど、、。
先日、新潟で友人と会った時も飲食店の店先はもちろん、医療クリニックまでハロウィンデコレーションで飾られていた。
「ハロウィンの意味、分かってやってるんでしょうかねぇ....。」友人が思わずつぶやいていた。
そういう私も、通販で可愛いハロウィン・ソックスセットを買い込んで、どれから履こうかにやにや悩んでいる。
日本人はとりあえずお祭りが大好きなのだ。
こんなに盛り上がる前、ハロウィンという西欧の風習が物珍しかった頃の事だ。ライブの仕事が終わって深夜の地下鉄に乗っていた。
渋谷駅で、4〜5人の若い女性たちが慌ただしく電車に乗ってきた。
全員が看護婦らしく、白い制服はびっくりするほど血染めで顔はあちこち傷だらけ。髪もぐしゃぐしゃで、乗車するなりぐったりと座席に倒れこんだ。
私は、何かとんでもない事故か事件が起こったのだと思ってめちゃくちゃ緊張した。
でも乗客はほとんど無関心で、そのうち看護婦たちが「A子、どうしたの?』「先帰ったよ。」「ふ〜ん、、。」てな仲間内の業務連絡を始めたので、私は訳がわからず謎の集団をただ眺めていた。
ちょっと考えれば、夜中の電車に白衣ってのは明らかにおかしいのだが、、。
後から、ちょうどその日はハロウィンだったと知った。
彼女たちは渋谷ハロウィンの先駆けコスプレーヤーだったのだ。
今では、小池百合子都知事がリボンの騎士になり、三越のライオンもとんがり帽子をかぶる。
面白そうな事には飛びついて、とことん盛り上がる日本人だ。
ハロウィンは、日本古来の妖怪趣味とお祭り気質に絶妙にマッチしてすっかり定着した感がある。
きっとこれから、日本独自のお祭りに進化していくのだろうなぁ、、ホラーファンとしてはちょっと期待したいところだ。
2016年
10月
26日
水
オリジナル9
Jazzを弾くようになってから、昔つくった曲をJazzのコンボで演奏できるように少しづつ手直ししている。
久々に1曲、なんとか形になった。20代の大昔(!)に書いた曲だ。
大学を卒業してすぐの頃、新潟で音楽仲間たちとバンドをやっていた。
所有機材はポリシックス( KORGのアナログシンセ )と1Uのデジタルディレイだけで、アドリブできない・リズムは悪いで最悪のキーボードなのだが、とにかくシンセを弾くのが嬉しくて、夜中まで部屋にこもって音作りとかベンドホイールの練習とかしていた。
バンドでは、人気有名バンドのコピーとかYAMAHAポプコンのアレンジとか、一週間集中スタジオ練習とか東京の有名なボーカルさんの新潟ツアーのバックとか、思い出してもなんだかいろいろワイワイと楽しかった。
今みたいにネットに情報があるわけでなく、地域限定で盛り上がっていた。
当時、私は、ロックとクラシックが混ざった感じの音楽-いわゆるプログレッシブ・ロックっていうのに憧れていて、YESの『危機』『こわれもの』やELPなんかを朝っぱらから大音量で聞いていた。
曲も歌詞も難しくてさっぱり理解できなかったが、その糸がもつれたような複雑難解さがめちゃかっこよかった。
どう頑張ってもコピーは無理っぽかったし弾けそうにもなかったので、自分でプログレ風のオリジナルを書くことにした。
ごちゃっとこねくり回した感じの曲(笑)が出来たが、どうもロックというよりクラシックとポップスの混ざった風になったのは、やっぱり私の中にロックの血が流れていないからだろうなぁ....まぁ仕方ない、、。
それでもなんとか曲としてまとまったのは、バンドのメンバーたちが恐ろしく上手かったからだ。
特に、ドラムのTくんは演奏の技術もセンスも素晴らしかった。( 彼は今や、日本を代表するロックドラマーになって活躍中である! )
最近、そのT氏とFBで久しぶりに巡り会って、すっかり忘れていたこの曲を思い出した。『Love Nix Love』
意味は、”かなわない愛”みたいなニュアンスだと思うのだが、曲名を付けてくれたのはTくんである。( 彼は英語がペラペラなのだ。)
私のセンスでは、絶対に絶対に無理なネーミングだ(笑)。
昔の譜面を引っ張り出して眺めてみたら、やっぱりごちゃごちゃっととらえどころがなく、ちょっとこれは....と諦めかけた。
でも、曲中(なか)の、ふわっと何処かに行く感じの部分がすごく良いなぁ、と思ったので、無理やり頑張ってJazzコンボ仕様に書き直してみた。
どこかバロックの雰囲気がある、なかなかロマンティックな曲になった。
それにしても、変拍子、臨時記号だらけで構成も変則的なので、こりゃあJazzManたちはもの凄く嫌がるだろうなぁ。
せめて、きれいに譜面を書き直し、頭を下げてお願いするしかない、、。
先行き不安な『Love Nix Love』だが、時間をかけて少しづつ完成させていきたい。
普段弾いているJazzとは少し違う音遣いを楽しみながら、メンバーにもアドバイスをお願いしてまとめていこうと思っている。
2016年
10月
02日
日
痩せた?
2013年に父が他界し、2014年に母が後を追うように亡くなった。
その二年の間に東京から新潟の実家へ、そして新潟からまた東京へと引っ越しをして、介護をしながら自分の音楽活動の為に月2回、新潟-東京を泊まりがけで往復した。
思い返してみたら、、。
ふ〜、短期間だけどすっごく頑張ったなぁ。
なにせ一人だからね。もう気力だけで、頭、まったく働いてなかった気がする(笑)。
2015年は余力でよろよろ動いて、今年に入ってようやく、自分のペースでものを考えられるようになってきた。
いい感じに充実してきたなぁ、よしよし....。
なんて思っていたら、、。
会う人会う人みんなが、心配そうに「痩せた?」と聞くのだ。
体重を測るという習慣がないので、「うん、まぁ痩せたかもね、大変だったから、、。」てな生返事でやり過ごしてきたが、最近だんだん気になり始めた。
「わたし、そんなに痩せた?」
新潟の実家の体重計に乗ってみたら( 東京の家には体重計がない -_-;; )、3キロも減っていてびっくりした。
あげくつい最近、仕事で久しぶりに行ったライブハウスで「どうしたの?!そんなに痩せて!」と驚かれた。
自分でびっくりはしていても、相手にもそんなに驚かれるとけっこう傷つく(笑)。
もうね、ここまでくると悩んじゃいますね、なんとしなきゃって、、。
う〜、太ってやる〜!と、ただただ固く心に誓うのみだが、もう暴飲暴食をできる年でもないのでなかなか難しい。( 体調はいたって快調なのだし。)
痩せた原因は、2年間の心労や悲しみや過労や年取ったせいやピアノが上手く弾けないストレスやあの人にこんな事言われたことやあの国がほんと滅茶苦茶だったり、、まぁ普通にたくさん思い当たるのだけれど、たぶん、少しづつの変化だったので、自分ではそれほど気にならなかったのだ。
以前、このブログで「太った?」は女性に対して絶対の禁句だという記事を書いたけれど、「痩せた?」もダイエット中の人以外には禁句だと思うのだが、私だけか....?
とりあえず、3キロ奪還。
まずは甘いものかなぁ、、。
2016年
9月
27日
火
美術展
新潟で美術展を見た。
『風景画の世界展』
たまたま招待券を頂いて、美術館が駅の近くだったので東京に帰るついでに立ち寄った。
新潟の資産家である敦井榮吉氏の私蔵コレクションの中から風景画を選って展示していて、横山大観や東山魁夷など、日本画にはまったく疎い私でも知っている有名な画家の作品もあった。
敦井氏は近代から現代にかけての日本画・陶芸の収集家で、そのコレクションは1300点に及ぶ。( 新潟にこんな粋人がいたのだなぁ。)
静かな空間でゆっくり絵を見る時間が好きだ。
展示された絵には、画家の息遣いや絵筆を持った時の手の力、時にはそれを描いた時の心ー何を感じ何を思っていたのかーが表れていて、まるでタイムマシンで時を遡って、その場に立ち会っているかのような気持ちになる。
美術館には、一種独特の張り詰めた空気が流れている。
作品がそれぞれの空気を醸し出している。
美術展というと思い出すことがある。
もう何年も前に、渋谷の東急Bunkamuraに「N.Y.グッゲンハイム美術館」を見に行った。
カンディンスキーの絵を見たくて行ったのだが、他にもピカソやシャガールやマティス....、展示された作品の素晴らしさに圧倒された。
ゆっくりと順番に見ていって、ゴッホの、彼にしては淡い色彩の小さな絵の前に立った時、何故だろう、涙がふっとあふれた。
『雪のある風景』ー溶け始めた雪が所々に残る冬のアルル(南フランス)が描かれている。
私は絵からちょっと離れて立っていたのだが、その絵の前に、一心不乱に絵筆を動かすゴッホの後ろ姿が見えた気がした。
冷たい冬の午後、ひと気のない平原で冷えた手を温めながらキャンバスに向かう彼の姿を、絵と同じ空間の中に感じた。( ポケモンGoみたいなイメージ。)
何故涙がでたのか。その時は分からなかったし、深く考えることもなかった。
(彼の気の毒な境遇-世の中になかなか認められない事-を可哀想に思ったんだろうか?)
そんな同情とは決して違う、もっと不思議な感情だったのを覚えている。
今、この記事を書きながら、あの時のことを思い返してみた。
私が見たと思ったゴッホの後ろ姿。
私はそこに、彼の必死さを感じたんじゃないだろうか。
自分の芸術に対するひたむきな熱情、それよりもっともっと強い彼の”必死さ”をきっと感じたのだ。それに胸を突かれたのだと思う。
もちろん、ただの思い過ごしかもしれない。
でも、そう考えたら何だかとても納得した。
それにしても謎は残る。
何故この絵だったんだろう? 他にもっと有名な大作があるのに....。
穏やかな小さな絵。
芸術家と作品の間には、凡人には計り知れない”神秘なもの”が在るんだろうか、、。
もしかしたらあの時の涙は、その神秘に触れた貴重な一瞬だったのかもしれない。
この世には不思議な事がいっぱいあるのだ! (....と私は信じたい・笑。)
2016年
9月
14日
水
エゾシカ-Part2-
小さい頃、手塚治虫の漫画やディズニーの映画をよく見た。
画面の中のジャングルや深い森の奥は、子どもにとってお城の舞踏会やお姫様と同じように夢の世界だ。
『ダーウィンが来た!(NHK)』なんて当時はやってないし、アフリカや南米の森林地帯が実際どんな所なのか想像もつかない。
物語の動物たちは、兎や鹿などの草食動物はたいてい優しくて愛らしく、狼や虎やハイエナは狡猾で残忍で恐ろしげだった。
ストーリーに引き込まれると、可愛い動物たちを苦しめる肉食動物はなんて邪悪な存在なのだろうとおびえ、こんな悪者は地上からいなくなってしまえと願った。
ジャングル大帝のレオは例外で、まぁ全ての動物の王者だし、彼が毎日何を食べているのかなんて小さい子は考えなくて良いのだ。
こうして、世の中の事をまるで知らない子供が大人になって、ある日突然、自分が地球史上最強・最恐の肉食動物になっている事に気付いてびっくりする。
びっくりしない人の方が多いが、ショックを受けて、動物を一切食べない菜食主義者になる人もけっこういる。
『自分はなんて罪深いことをしているのだ、、。』
因みに私は、美味しく生まれてしまった海老やマグロや牛や豚は気の毒だなぁ、なんてお気楽な事をぼっと思っていた。
先日、地元の新潟で、”エゾシカ”と”鯨”という普段食べ慣れない食材を食べた。
美味しさに心底感激しながら、またむくむくと、考えなくてもいい事、あるいは考えてもしょうがない事を考え出した(笑)。
どうして”エゾシカ”が急に食卓に上るようになったのか。
どうして”鯨”を食べる事を世界の人が批難するのか。
ちょっと調べてみた。
”エゾシカ”は、天敵の狼を全滅させてしまったせいで増えすぎた。その結果、いろいろ困ったことが起きて、処理する=食べることにしたのだ。
人間が特定の動物を保護した結果、生態系が崩れてしまった。
反対の事例が、特別天然記念物ー国際保護鳥のトキだ。
私の地元・新潟県の佐渡トキ保護センターでは、明治から大正時代、肉や羽を取る目的で乱獲されて国内絶滅したトキを、人工繁殖・飼育で日本国内に復活させる試みを続けている。
”鯨”について言えば、反捕鯨は食の文化に対する攻撃だとする論調がある。
食用の家畜という文化に馴染みがない私たち日本人には、ハンバーガーをほおばりながら「鯨を殺すなんて残酷だ!」と叫ぶのは奇妙に映る。
菜食主義者たちから言われるのなら、まぁそう、、鯨、可哀想だよね...。
でも、そういう文化についての議論は永遠に平行線なので、今は生態系の維持について絞ってみる。
インターネットに、日本捕鯨協会の『反捕鯨団体の言われなき批判に対する考え方』という記事があった。
http://www.whaling.jp/taiou.html
***世界中の鯨類が捕食する海洋生物の量は、世界の漁業生産量の3〜5倍に上ります。、、、鯨類が大量の魚を捕食していることは事実であり、鯨を間引くことでその分人間が魚を利用できることは間違いありません。、、、また、クジラは海の食物連鎖の中で最上位の捕食者であり、クジラだけをいたずらに保護することは海洋生態系のバランスを崩すことになります。***
他にもたくさん、反捕鯨の意見に対する<回答>が書かれていて、欧米の記者たちの感情的な記事よりはよほど説得力があると思った。
政治的なことはよくわからない。
でも、生態系のバランスという点で、”エゾシカ”と”鯨”、すごく似てるなぁ、、。
私たちは、地球史上最強・最恐の肉食動物だ。( ティラノザウルスより凄い。)
すべての生き物の最上位にいる。彼らの命をもらって命をつなぐ。
その意味で、子どもの頃に感じた”邪悪で残忍な悪者”そのものだ。
大人になった今、その事実に気付いてがっかりする。
”人間”という動物がやっている事、でもそれは生きていく為に仕方がない事だと諦める。(ずっと昔からそうしてきたし、これからもそうなのだ、、。)
そして、なるたけ考えないように心がける。(慣れてしまえばいいのだ、、。)
食物連鎖の頂点にいる者として、人間ができる事ってなんだろう?
好ましい動物を保護することか、害のある動物を絶滅させることか、工場で生産するように動物を飼育することか、命を奪う事を可哀想だと思うことか?
『動物を食べる』ということが、『植物を食べる』のと同じような感覚になってしまって、何も考えなくなる、何かを感じても深く考えなくなるということが、実はとても怖い事なんじゃないだろうか。
考えても結論が出る話じゃないし、何が正しいかなんて誰も言えない。
けれど、”エゾシカ”と”鯨”はそういう問題に向き合うきっかけをくれた。
頭の中がごちゃごちゃ・もやもやしているが、いろいろ考えてやっと一つだけ、答えを出した。
私は、日本の調査捕鯨に賛成だ。
”鯨”が食べたいからじゃなくて( 美味しいけど )、海洋生態系を維持するには、”鯨”が少なすぎても多過ぎてもきっと大きな影響がでる。
”エゾシカ”みたいなことになってほしくない。
だから、ちゃんと研究してコントロールしてほしいと思った。
地球上の全生態系に対する責任が、最上位にいる人間にはあるんじゃないだろうか。
でも、どうして人間だけがこんなに進化して最強になっちゃったんだろう?
未来のある日、人間より賢い生物が突然変異で現れるか宇宙からやって来て、あるいはAIがどんどん自己進化して暴走して、人間が完全に支配される側になったら世界はいったいどうなるんだろう?
、、うぅ、いかん、また、、.。
2016年
8月
23日
火
エゾシカ-Part1-
幼馴染みで高校の同級生・K氏は、生まれ育った新潟市の事ならほとんど何でも知っている。
「すごいねぇ、、。」と尊敬すると、「何年ここに住んでると思うのよ。」と笑う。
私なんぞ東京に◯十年住んでいても、東京タワーにもスカイツリーにも登ったことがない。
そのK氏が、新潟・古町にある高級串揚げ屋さんに連れていってくれた。
大通りから抜けて狭い路地に入ると、こじんまりとちょっとお洒落な小料理屋さんや割烹・飲み屋さんが軒を連ねる。古町は、粋で風情があって大好きな街だ。
その串揚げ屋さんも垢抜けた店構えで、ちょっとお寿司屋さんみたいだなと思った。
店に入ってコの字型カウンターの席に座ると、小柄な店長さんが、丁寧に下ごしらえした野菜や肉・魚などの食材を目の前で次々に揚げてくれる。
こちらのペースを見ながら、絶妙なタイミングだ。
冷えたお酒を飲みながらK氏と話をするその合間に、一品一品、食材の説明と食べ方( 塩で、タレで、そのままで、とか....)をちょこっとつぶやきながら、カウンター越しに置いていく。
「アスパラです。」
「甘鯛です。」
「蓮根です。」
「村上牛です。そのままでどうぞ。」
そんな至福のひと時を過ごしていたら、店長さんがぼそっとつぶやいた。
「エゾシカです。タレで、、。」
ふむふむ、エゾシカね....、え、エゾシカ?、、エゾシカって、、あのエゾシカ?隣りのK氏は、別段何事もなく美味しそうに食べている。
極寒の北海道の冬。
人里離れ、見渡す限り雪と樹木だけの山野を背にしてこちらを静かに見つめる一頭の『エゾシカ』。
その神々しいまでに威厳ある姿が目の前にぽっと浮かんだ。
カレンダーや旅行雑誌のカラー写真でよく見るあのショットだ。
「エゾシカは食材で普通にあるんですか?」と聞いたら、
「はい。」とそっけなく言われて終わりだったので、それ以上は聞かず、雑念(笑)を払って初めての味を楽しむ事にした。
翌日、やはりどうにも気になって、インターネットで調べてみた。
”北海道のエゾシカくんたちは、今いったいどうなっているんだ?”
『エゾシカ』で検索すると、Wikipediaの説明文の次に『北海道でエゾシカが増えすぎて困っている件』というブログの記事がど〜んとあった。
それによると、、。
・北海道では、増えすぎたエゾシカが農作物や森林の樹皮を食い尽くして、甚大な被害がでている。
・エゾシカ出没による交通事故や列車事故も頻発している。
・こんなにエゾシカが増えてしまったのは、捕食者であった狼を人間が絶滅させてしまったから。
・「再び狼を野に放とう」という動きもある。( アメリカのイエローストーン公園での成功例あり。)
・しかし慎重論もあり、代わりに進んでいるのが「食肉としてのエゾシカ」である。(『エゾシカ食肉事業協同組合』)
ふむ、なるほど、、。
それで、北海道のエゾシカくんが、新潟・古町の高級串揚げ屋さんの冷蔵庫に入ることになったわけだ、、。
実は先日、これも新潟での話なのだが、『鯨汁(くじらじる)』という郷土料理を初めて食べた。
夏の定番料理ということだが、我が家では何故か一度も食卓に上らなかった。
新潟大学の数十年ぶりの同窓会で行った老舗料亭で出されたのだが、鯨がこんなに美味しいものだとは、日本人なのに-新潟人なのに-ちっとも知らなかった。
( 昔、給食で食べた鯨の竜田揚げが本当の『鯨』だと思ってはいけない -_-:: 。
あれはあれでけっこう好きだったけど....。)
捕鯨についてはいろいろ議論がある。
一方的に日本が悪者にされている感じだが....。
外国人が言う”捕鯨は残酷な悪行”って本当だろうか?
エゾシカと鯨、”動物を食べる”という事についてちょっと考えたくなった。
***Part2に続く***
2016年
8月
14日
日
森鷗外-Part6- 記念館へ
***Part5より続く***
文京区立森鷗外記念館は、森鷗外の生誕150年の2012年、千駄木の旧居「観潮楼」の跡地に建てられた。
もともとこの場所には文京区立鷗外記念本郷図書館が建っていて、もう十年以上前になるが、敷地内に残っている有名な「銀杏の木」や「門の敷石」「3人冗語の石」の写真を撮って、上野精養軒でコーヒーを飲む、という私的ミーハー鷗外ツアー(笑)をやった事がある。
精養軒という老舗西洋料理店は、明治の文豪たちと非常に関わりが深く、鷗外や漱石の小説にも登場するし、留学を終えた鷗外を追ってドイツから来日したエリスが泊まったのが、築地精養軒であった。
築地精養軒は関東大震災で全焼し、現在は上野が本店である。
新しく改築された森鷗外記念館のことはインターネットで知って、ずっと行きたいと思っていた。
ファンの心理として、このような場を訪れるときのタイミングは、万全の体調と万全の環境を要求する。つまり、気分が良くて天気が良い日だ(笑)。
待望のその日、朝から何だか嬉しい。
今回は、他の場所も見て回るというようなツアーではなく、鷗外記念館だけをじっくりゆっくり観ることにした。
電車の乗り換えを調べて、いざ文京区千駄木へ。
どっぷりと、鷗外と明治という時代に浸った半日だった。
鷗外が亡くなる一年前、何かの行事の際に広場を足早に歩く映像が残されていて、ほんの2〜3秒の短いものだったが、実際の鷗外の動く姿が見れて感激した。
何回も見てしまった(笑)。
5月からほぼ3ヶ月間、鷗外について、とりとめもなくいろいろ書いてきた。
作品もいくつか読み返した。
今日の記念館では新しい発見もあった。
何故だろう、こうやって鷗外と向き合うことで、自分の心が慰められるような、癒されたような気がしている。
こんな気持ちになるなんて、我ながら意外だった。
明日からまた頑張ろうと、ただそれだけをまっすぐに思った。
力をもらった気がした。
2016年
7月
27日
水
森鷗外-Part5-『半日』について
***Part4より続く***
前回の記事で、「次回は、文京区千駄木の森鷗外記念館に行きます^ ^」なんて、珍しく前向きな事を書いてみたはいいが、最近なぜだか忙しく、せっかく暇でも雨が降り出したりで、鷗外記念館訪問は来月に先送りとなってしまった。
そこで今回は、鷗外の問題作『半日』について書いてみようと思う。
なぜ問題作かというと、この作品は、鷗外の私生活の秘密の暴露なのだ。
発表当時、誰が読んでも「あ、鷗外夫婦の話である。」と分かるくらいあけすけに、森家の台所事情まで晒して、嫁姑の御し難い仲の悪さを夫の立場から客観的に書いている。
嫁の気持ち、姑の言い分までちゃんと書いた上で、「もうお手上げである。」と降参しているのだ。
嫁が呪詛のように繰り返す姑に対する不満や悪口の合間に、置き時計の音が静かにチクタクと鳴るのがホラー映画のように不気味だ(笑)。
鷗外の妻シゲさんは、作品が雑誌に発表された時「なんてことするのよ!」と大慌てだったろうと思う。
石川啄木も、読んでびっくりしている。
世の中の人はたいてい驚き呆れたと思う。
そして鷗外は、態度が改まらないようなら第二作めを出すぞ、と妻シゲさんに宣告するのだ。
そう言いつつも、お前も小説を書いてみたらどうだと勧め、妻が書いた原稿を赤ペンでびっしり添削している。その赤ペンで真っ赤になった原稿を持って、シゲさんはいそいそと出版社を訪れるのだ。
なんかいいなぁ、、と思う。
鷗外は意地が悪いとか冷たいとかいう人がいるが、私はそう思わない。
森家の嫁姑問題はかなり深刻であった。
鷗外も苦慮のあげく、日本で最初の二世帯住宅ー嫁と母が家の中で顔を合わさずにすむ造りーを考案している。
現代も続く永遠の難問題を解決するなんて事は、家族制度が根本的に変わらない限り不可能に近い。
小説の中で「博士」は、「奥さん」のいつもの理不尽な悪口と罵りに怒りと諦めを感じながらも、御所に参内する公務を休んでまで『半日』延々と「奥さん」と対峙する。
机と火鉢を隔てて「奥さん」と真正面から向き合うのだ。
これってある意味、凄い事じゃないだろうか?
妻の癇癪に、「また始まった...。」と逃げ出す、耳をふさぐ、他の場所に楽しみを見つける、離婚して追い出す、、まぁいろいろな対し方があるだろうが、この「博士」は実に辛抱強い。
過去何回もこうした話し合いがあって、全部が実を結ぶことなく虚しく終わっている。
それにもかかわらず、「博士」は「奥さん」の訴えを半分聞き流しつつも無視することはしないのだ。
実際に鷗外は、周囲の離婚を勧める声にまったく耳を貸さず、晩年は夫婦水入らずの穏やかな日々を送っている。
鷗外という人は、目の前の問題に対して常に誠実であった。
自分の力が及ばない場合でも、精一杯我慢強く、誠実であろうとした。
『半日』を久しぶりに読んで、そんな事を思った。
***Part6に続く***
2016年
7月
16日
土
森鷗外-Part4-『書くこと』について
***Part3より続く***
このブログは、5年前にある人の勧めで始めた。
最初は何を書いたらいいものか、億劫に思う気持ちと続けられるかという不安、読んでくれる人などいるのだろうかと限りなくマイナスに考えていたが、
「田崎さんの好きなものを書けばいいんですよ^ ^ 」の一言で俄然やる気が出た。「えっ? 好きなこと、書いていいの?」
昔から私は変なヤツだったと思う。
私が好きなもの、興味がある事、面白いと思った事、いろいろ考えた事なんかを話し出すと、だんだん相手は無口になる。
私の話が滔々と長いのと、妙に熱を込めて力説してしまうので、相手がしらけて退屈してしまうのだ。
話題もたぶん一般的じゃない。普通の人が、なんでそんな事を?と逆に驚くような事、例えば『母系社会と父系社会はどちらが幸せか』とか(笑)、聞く人にとってまったく迷惑千万な話だ。
思い返してみると、私の興味は随分と偏っていて、しかもどうでもいい事を無駄に深く考えてしまう傾向がある。
この重大な欠点に気付いてからは、だいぶ言動に気をつけるようになった。(それでも時々やらかしてしまうが、、。)
自分の好きなものについては、気を付けてあまり話さなくなった。
だから、ブログを書き始めた頃はそれはもう嬉しかった。
考えたり思ったりした事を文字にする。なるたけ正確に、嘘や誇張がないように簡潔な文章にする。
その作業がとても楽しい。
頭の中に散らかった思いや考えがまとまっていくのは、本当に爽快で気持ちがいいのだ。
そして近頃、今までとちょっと違う「書く事の楽しさ」を発見した。
文章を書く事は、色や形や大きさの様々な小石を使って一枚の多色濃淡の貼り絵を作るような作業だと思う。
絵に嵌め込む為の小石を、澄んだ水の小池の底からあれやこれやと拾い上げる。どんなに色が美しい小石でも、大きすぎたり形が合わなければ池に戻すしかない。
その拾い上げたり戻したりは、文章を書きながらどの言葉を使おうかあれこれ悩むのと似ている気がするのだ。
そして、Jazzの即興演奏で音を選ぶ感覚ともよく似ている。Jazzの場合はほとんど瞬時の選択だけれど、、。
言葉を選ぶ、アドリブのスケールを選ぶ、どちらも選択肢がたくさんあって楽しい。
選んで決める事の繰り返しを、自由に、自分の思うままにできる事がこの上なく楽しいのだ。
だから、ブログの記事を書き始める時は、ピアノに向かう時のようなちょっとしたワクワク感がある。
今回『書くこと』についていろいろ考えたのは、この3ヶ月ほど、ブログで鷗外について記事を書いてきて、ちょっと面白いことを思ったからだ。
遥か昔に図書館で森鷗外全集の書架を見上げた時、その膨大な量に圧倒されて、なんて勤勉で自制心の強い人なんだろう!と思った。恐るべき努力の人だと思った。
その時の驚きは本当によく覚えている。
そういう面は確かにあるだろう。
でも、どういう訳か私の頭の中に、ふんふんニコニコしながら机に向かってペンを走らせている鷗外の姿がぽっと浮かんだ。すっごく嬉しそうだ。
こんな妙な事を想像したのは多分、私がブログで曲がりなりにも『書くこと』を始めたからだ。
私の『書くこと』が小池から小石を拾い上げる事だとすると、鷗外の『書くこと』は、とてつもなく大きく深い湖の底に、誰も見たことがないような美しい小石が見渡す限りに散らばっている、高い山の頂から湖の底を俯瞰するとぴったりの小石がきらきら光って見える、魔法のように杖を振るとぴゅっとその小石が飛んで来る....(笑)、、てなふうじゃないだろうか。
鷗外の博識さは半端なものではなかったから、冗談ではなく、本当にそんな感じだったかもしれない。
もしそうなら、どんなに『書くこと』が楽しかったことか!
そして、彼の中で生まれる様々な思考は的確に表現され外に出されたのだ。
鷗外にとって『書くこと』は、面白くて愉快な事である以上に、息をするように必要なことだったのかもしれない。
私の勝手な思い込みだけれど、ちょっとだけ鷗外を近くに感じて嬉しかった。
次回は、文京区千駄木の森鷗外記念館に行きます^ ^
***Part5に続く***
2016年
6月
21日
火
森鴎外-Part3-
***Part2より続く***
鷗外研究者やファンにとって「エリス事件」の真相は、長年”最大の謎”だった。
エリスとはどんな素性の女性であったか、、。
多くの研究者たちが、下宿の娘・娼婦・ユダヤ人の人妻など諸説発表しているが、どれも確定に至っていない。
私も、近くの公民館でエリス研究についての講演があればいそいそと出かけて行ったし、新聞やネットでも気が付く限りチェックしていた。
明治の文豪・森鷗外が愛した女性である。、、まぁ私の場合は学問的探究心とは程遠く、この人がいかなる女性で鷗外と何があってどんな人生を送ったのか、純然たる個人的興味(笑)で知りたいと思った。
そしてついに2011年、多くの鷗外関係者が、これが真実であろうと得心する発見が発表された。
ベルリン在住のフリーライター・六草いちかさんが、エリスの本名が「エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト」であり、仕立物師の母親と暮らしていた事などを、大変な苦労の末に見つけ出したのだ。
Amazonの紹介では『永年の論争に終止符を打つ。日本文学史上最大の謎、森鷗外「舞姫」モデルついに発見!』とある。
本を読みながら、青年・鷗外が目の前に現れるような気がした。
古いドイツの街並みや道を走る馬車、手書きで記された当時の名簿、エリスと初めて出会った場所かもしれない教会の門の扉、、、それらの写真を通して生身の鷗外、森林太郎の横顔が浮かんだ。
本当のエリスの素性が発見された事で、これからの鷗外研究に新しい視点が加わる事になる。
六草さんのインタビュー記事がインターネットにあった。
(“ドイツNewsDigesut”の特集記事(2012.3/2)『生誕150周年記念・森鷗外とベルリン』より一部抜粋 )
*今回の執筆の過程を通して、六草さんは鷗外の人間像をどのようにご覧になりましたか?
「鷗外とはどういう人だったか?」、それを一言で表すなら「愛の人」だったと思います。
それは恋人や妻に対してだけでなく、友情だったり、母親や家族に対してだったり、人として愛する気持ちが強かったということです。
例えば、お弟子さんたちが鷗外について語っている回想録を読むと、誰もが「自分は鷗外に愛されていた、よくしてもらっていた」と感じています。
鷗外の子どもたちの手記の中には、「自分が一番お父さんに愛されていた」と書いてあります。
子どものために独自の教科書を作ったり、夜中にトイレに連れて行ったりなど、彼は愛情をもって子どもたちに接していました。
私生活ではいろいろなしがらみがあったようですが、自分を失わず、また人を愛することを失わずにいたのだと思います。(六草いちか氏)
六草さんは、最初に『舞姫』を読んだ時、なんて酷い話だと本を投げ出すほど怒ったそうだ。
自分の子を身ごもった女性を捨てる身勝手な男の話だから、まぁ無理もない。
鷗外を全く好きではなかった彼女が、エリス=エリーゼについて調べるうちに少しづつ鷗外への理解を深めていった。
「愛の人」は、ただ「優しい人」とは違う。相手に与える愛をたくさん持っていた、そしてその愛はとても誠実で理性的なものだった、、私はそう思う。
人として、男性として、父として、友人として、家長として、、。
作家や官僚・知識人としての公的な立場以外の様々な面が研究者たちによって明らかにされている。暗い面ももちろんある。
それでも、鷗外を知れば知るほどその人柄に魅きつけられる。
鷗外は40歳で再婚するのだが、その見合いの席の様子を娘・杏奴(アンヌ)さんがお母さんから聞いている。
「…、母は父を一眼見て気に入ってしまった。顔も厭ではなかった。どんな所が一番気に入ったのかと聞いて見たら、態度と、それから声が非常に気に入ったと答えている。全く父の声は少し濁を帯びて、低く柔い響を持っていた。」
ふ〜ん、その声、めちゃ聞いてみたかったなぁ....。低く柔かい声、、。
まったく私は、”超ミーハー鷗外ファン”なのである(笑)。
***Part4に続く***
2016年
6月
13日
月
森鷗外-Part2-
(そうとう昔の話になるが....。)
大学卒業で国文学の論文を書くにあたり、鷗外=森林太郎について、小さい頃の事やらいろいろ調べ始めた。
そうすると、彼は本当にとんでもなく優秀な人で、幕末の藩医の家柄である森家一族の期待を一身に受けて育った超エリートと分かった。
10歳からドイツ語を習い始め、東京大学医学部を最年少の19歳で卒業している。
そもそも、この時代の日本のエリートたちの優秀さは半端なものではなかったと、いつだったかテレビの情報番組で見た覚えがある。
小学生時分から過酷な試験をいくつもパスしなければならなかったとか…。
ただ頭が良いとか勉強ができるのではなく、『坂の上の雲』や長州五傑(『長州ファイブ』)などの史実を見れば、自分の命と引き換えにするくらいの物凄い精神的強さを持って、開国したばかりの国の為に働こうとした人たちが明治の日本には相当数いた。
鷗外も、日本の未来を背負うべくドイツへ官費留学する。
ドイツ留学中は、友人や下宿人たちと親しく付き合い、勉強・研究ばかりではなく、舞踏会や宮廷劇場で貴族と交際したり美術鑑賞や観劇したり、それはもうヨーロッパ文化を思う存分に吸収した。
ドレスデン地学協会では、日本について講演したナウマンというドイツ人学者に流暢なドイツ語で論争を挑んで話題になったりしている。
行動がなかなか派手である(笑)。
(これらの事は、英国留学中に神経衰弱で引きこもりになった漱石とよく比較される。)
そんなドイツ留学時代に、鷗外はあるドイツ人女性と恋に落ちた。
この恋愛を題材にして『舞姫』が書かれるわけだが、実際に、帰国した鷗外を追って、たった一人で長い船旅を経て来日したドイツ人女性がいた。
この人が「エリス」である。
鷗外の周りでは、家族はもちろん親戚、友人、軍部の上司までもが「とんでもない事!」と驚いて、結局、彼女をドイツに追い返してしまった。
これから立身出世をするであろう大事な家の跡取り息子に、変な傷をつけてなるものかって感じだったのかなぁ、、。
この事件については、家族の言葉や陸軍関係者の日記・その後の鷗外の小説などから、断片をつなぎ合わせて推理するしかない。
当時の日本において異国の女性との恋愛はスキャンダル・醜聞扱いだったから、周囲はうまく処理して何事もなかったことにしたかったに違いない。
***Part3に続く***
2016年
5月
08日
日
森鷗外-Part1-
国文科を卒業する時、選んだ卒論のテーマが『森鷗外』だった。
大学で国文科に入ったのは源氏物語に興味があったからだが、受けた講義が全く期待とずれていてすっかりやる気が失せてしまった。
学問研究は、ロマンチックな感性ばかりでどうなるもんじゃない(笑)。
その時期のひょんな巡り合わせで音楽の世界に舞い戻るわけだが、そうは言っても大学を卒業するには卒論を書かなければならない。
どうするかなぁ…、と考えた時にポッと心に浮かんだのが、昔読んだ森鷗外の『舞姫』だった。
日本人のエリート官僚とドイツ人の貧しい踊り子の悲恋の物語ー古めかしくも気品ある雅文体の文章が、昔のヨーロッパ映画のような光と影の世界をベールの向こうに描き出す。
生々しい男女の恋愛について何か感想を持つほど大人じゃなかったが、とにかく美しいなぁと思った。
そしてその主人公のモデルが鷗外自身であることを知って、なんだかドキドキしたのを覚えている。
その時は小説に感動したというより、作者に興味を持った。『森鷗外』ってどんな人なんだろう?
卒論を書くにあたって、これから1年どっぷりと向き合うなら『森鷗外』以外ないように思えた。
漱石も谷崎も選択肢にない、何故か不思議な運命のように鷗外に惹きつけられた。
しかし、ここに一つ重大な見落としが、、。
鷗外が明治の文豪な事は知っていたが、あそこまでの大文豪とは思わなかった。
( 見通しが甘いのは昔から -_-;; ほんと笑い事じゃない....。 )
県立図書館に行って、鷗外関連の書籍の多さにマジで倒れそうになった。
全集も全38巻。書架を見上げて汗が出た。
鷗外の著作量は、400字詰め原稿用紙を毎日4枚、休まずに書いたくらいの量なんだとか、、。
陸軍軍医総監・高位の官僚で、明治の日本文化の啓蒙活動家でもある。
公務の他に公私の人付き合いも半端なく多かったはずで、そんな多忙な日々を送りながら、翻訳・評論・詩歌・小説・史伝・随筆などを多数執筆した。( 軍医として学術論文も書いている。)
日露戦争従軍中は、若妻と1歳になったばかりの長女・茉莉を思いやって、熾烈な戦闘の合間に愛情溢れるチャーミングな手紙をたくさん送っている。
4人の子供たちからは絶大に愛され信頼された。
4人全員が父親について本を書いていて、それを読むと、家庭人として鷗外がどれほど愛情深い人であったか胸が痛くなるほどである。
いったい、いったい鷗外ってどんだけ超人なんだ?!
小さな子が映画のスーパーマンに憧れるように、私は鷗外を敬慕した。
たくさんの作品や文献を読むうちに、彼が抱えていた苦悩や哀しみも見えてきた。
様々な事が自分の思いとかけ離れていく現実の中で、それでも自分の持てる能力すべてを尽くして国に報いようとし、家族や友人を誠実に愛した。
とてつもなく賢く、心の大きな人だったのだと思う。
私の大学時代はろくに勉強しないダメ学生だったが、唯一、『森鷗外ー森林太郎』という人の”生き方”を知れた事は、私の大切な宝物になった。笑っちゃうくらいに見通しが甘かった事が幸いした。
無謀にも”テエベス百門の大都”を前にして、無我夢中・しゃかりき一生懸命に書いた私の卒論。
教授に「なかなか面白かったよ ^ ^ 」と言って頂いたが、多くの研究者たちの意見の引用ばかりで、今思い返しても稚拙で浅薄でひとりよがりで恥ずかしい限りだ。( 提出した後、大学に取りに行っていない、、。 )
年月を経た今、論文でも研究でもなく、ただ自分の好きな事だけを書くブログでこうして鷗外についてあれこれ考えている事を思うと、ちょっと不思議に思う気持ちと嬉しさがごちゃまぜになって、何やら幸せな気持ちになる。
『舞姫』がポッと心に浮かんだあの瞬間は、まさに運命だったのだなぁ、と思う。
2016年
5月
04日
水
モロッコいんげん
駅前商店街の八百屋さんで買い物をしていて、トマトの隣に長さ20センチ以上もある巨大なさやいんげんを見つけた。
”わ、なんじゃこれは、、。”と思って、お店の若者に聞いたら「あ、それ、モロッコいんげんです^ ^」と教えてくれた。
「へぇ、モロッコから来たんだ....。」と感心したら、お店の人たちにめちゃめちゃウケた。
「いえいえ、長野でふつ〜に育ったやつです。」さっきの若者が笑いながら言う。
ふぅ〜ん、そうなんだ。私が知らなかっただけでかなりポピュラーな野菜らしい。
帰り道、一つ利口になったなぁ....、なんてふんふん得々と歩きながら、突然はたと思った。
じゃあ、なんで”モロッコいんげん”なんだ?
カリフォルニアオレンジはカリフォルニア、フィリピンバナナはフィリピン、台湾バナナは台湾、なのにモロッコいんげんは長野....。~_~?
早速、インターネットで調べてみた。
・モロッコいんげんの原産地は地中海沿岸。モロッコではない。
・昭和51年から日本で販売された。
・当時、モロッコを舞台とした映画「モロッコ」や「カサブランカ」などがヒットしていて、それにあやかり命名された。
つまり、”モロッコ”が当時たまたま巷で流行っていて、それにあやかって付けられた名前であり、この野菜の出自にも外見にも性質にも全く関係が無いのだ。
そう分かってみると、目の前の大きな”モロッコいんげん君”が、何とも哀れで頼りなげに見えた。
日本に来て既に40年、もうそろそろ本人的に納得できるネーミングを考えてあげてもよさそうなものだ。
最近、スーパーの野菜売り場で、新顔野菜( ロマネスコとかグラパラリーフとか )が高級そうな名前で幅を利かせている事だしね、、。
2016年
4月
18日
月
地震
ここ数日、インターネットニュースをちゃんと見ずに過ごしていた。
今朝、熊本の地震がさらに大変な事になっているのを知って愕然とした。
こういう時、テレビがないと全く情報が入ってこない。
自分の怠慢でもある。
ほんの数年前の恐怖と混乱を思い出した。東京にいても、毎日が不安で不安でしょうがなかった。
今、被災地の方々は、もっともっと不安を感じておられると思う。
被害の写真を見て呆然とした。
救援隊が多数、派遣されているようだ。
情報を探して、しっかりと知らなければいけないと思った。
熊本の皆さんの安全な生活が1日も早く戻りますように。
2016年
3月
15日
火
ともだち
先日、18年振りに再結成したJazzコンボの仲間たちとライブをやった。
18年前、Jazzについて殆ど知らなかった私に様々な事を教えてくれた大好きな人たちだ。
教える、と言っても言葉ではなく、とにかくいろいろ聴いて自分の音を出してみんなで遊ぶ。そのうちにJazzってこんなんかなぁ、、とおぼろげに見えてきた、という感じだ。
初心者にはハードルが高いジャムセッションも、<みんなで行けば怖くない!>って勢いでたくさんのお店に行ったし、合宿したりバーベキューしたり温泉に行ったりお祭りで演奏したり、まぁ本当に本当に楽しかった。
Jazzとの最初の出会いがこのメンバーだったからこそ、今、私はこうしてピアノを弾いているのかもしれない。
ずっと会っていなくても、会えばすぐに昔と同じ顔になる。
それが『ともだち』だなぁって思う。
18年振りの仲間たちのライブ。演奏しながら、懐かしさと嬉しさで心がいっぱいになった。
私の隣りの可愛らしい笑顔の恵さん、ボーカルのゲストで参加してくれました。ともだちの輪が広がっていきます^ ^
2016年
3月
15日
火
夢占い
他人の夢の話を聞くのはちょっと忍耐が要る。
”興奮冷めやらぬ”だから、人によっては微に入り細に入り丁寧に説明してくれるので話がやたら長くなる。
どこで相槌を打ったらいいものかよくわからない。
落語みたいに、聞いた最後にこれは夢でしたってオチがつくならかなり楽しめるが、最初から夢と分かっていたらどれだけ凄い話でも全然びっくりしない。
そんな訳で、自分の夢の話はめったに人にしない。話さないからすぐに忘れてしまうし、だいたいがそんなに夢を見ない。
でも数年に一度くらい、起きてから「ふへ〜?」と呟く変テコなやつを見る。
強烈なのは今でも2、3覚えている。
最近、インターネットで夢占い(夢診断)なんてのを発見して、面白そうだから昔見た夢をいくつかキーワード入力してみた。
意外な回答が出てきてちょっとハマった。
『前向きな気持ちで何事にもチャレンジできる状況です。』
『あなたの未熟な一面が表れる場合があります。』
『あなたの性格のイヤな部分、、改善せよ!との警告なのかもしれません。』
ふむふむ....、あの当時もしかしてそんな状況だったかも、、そうそう、未熟だったよ、あたし、ほんとイヤな奴だったし....。
昔の自分を思い出して反省したり納得したり、為にはならないが害もなく、なかなか平和で楽しい暇つぶしだ。
つい先日、久しぶりに「ふへ〜?」な夢を見たので、早速夢占いでチェックしてみた。
『恋愛運は上昇の傾向です。』
『あなたが積極的になっているしるしです。、、また、恋愛面でも明るい兆しです。』
えぇ〜っ? そんな筈ない、絶対ないない(*o*)
占いだからってこういう間違いは困るなぁ、びっくりして体に悪いわぁ、、。
その3日後、また違う変な夢を見た。( 続けて見るなんて珍しい。)
『これから素敵な恋をしよう、と思っているしるしです。』
『音楽を聴いている夢は、恋愛の願望を表します。』
ど、どうしたんだ....?(~_~;;
一抹の不安が忍び寄る。「もしかしてあたし、、。」
フロイトやユングも夢は精神分析で重要だって言っているし、無意識で「素敵な恋をしよう!」なんて願っているのか、私は。
ここ久しく微塵もそんな事を思った覚えが無いのに、深層心理ではまったく違う自分があ〜だこ〜だ考えているとか、もしそれが本当ならこれはホラーだ、悪い夢だ!
その日以来、平和な毎日が謎と恐怖にかき乱されている(笑)。
ホラー・SFファンとしては次の展開に期待したいところだ。
私の中の誰かとか、もう一人の私とか、異次元の私とか、パラレルワールドの私とか、未知との遭遇とか、、。果たして謎は解明されるのか !?
……あれ?
2016年
2月
20日
土
リズム
今、一番考えている事はリズムだ。
ここ最近やっと右手の薬指と子指に力がついてきて、フレーズを弾きながらよろよろする事が少なくなった。
でも、鍵盤が重いグランドピアノだったりするとまだまだヘタレる。
指に十分な力がないと、タッチのコントロールが行き届かなくてガンガン強い音が出たり、Jazzのリズムが思うように踏ん張れない。
グランドピアノを弾く機会が増えた事で、そんな初歩的な事がようやく致命的な欠点だと気が付いた。絶対克服しようと決心した。
まずは、一人で安定したスイング感が出せる事。
そもそも、4ビートちゃんと理解してるんだろうか、わたし....?
そんな自信の無さはちゃんと音に出る。
Jazz Pianoを弾こうとすると、コード・ボイシングやスケール、アドリブのやり方とか、リズム以外にいろいろ勉強する事が多い。
けっこう頭も労力も時間も使う。
そして、何とかまがりなりにもアドリブをこなせるようになると、何故かむくむくと”できちゃった感”が生まれる。”いい気”になっちゃうのだ(笑)。
そしてある日、共演するメンバーから強烈なダメ出しを食らう、、。基本的なリズムのアンサンブルー共有ができていないのだから言われて当然のことだ。
これはかなりダメージが大きい (-_-;; 辛くて胃が痛くなる....。
でも、言ってくれた事は全部本当の事なので丸ごと聞くしかない。努力して改善するのみだ。
一番大事なのは、リズム。そしてたぶん、一番楽しいのもリズムだ、きっと。
2016年
2月
09日
火
どっちが、、。
以前ヤマハのエレクトーン講師をしていた時に、ホンの短い期間だったが千葉にいた事があって、子供たちのエレクトーンコースを1クラス担当した。
最初に新潟出身だと自己紹介したら、子供だから無邪気にいろいろ質問してくる。
「先生んちはお百姓さん?」
「冬には雪が屋根まで積もるの?」
「先生はスキーが上手?」等々だいたい既定路線なわけだが、1つびっくりする質問があった。
「新潟と千葉と、どっちが田舎?」
田舎について、それまでちゃんと考えた事がなかった。
田んぼや畑がのどかに広がり、小さな川のほとりで鳥がさえずる。雨が降れば森の木々がざわめき、どこかで大きな木の上に雷がどか〜んと落ちる…、なんてベートーベンの交響曲『田園』みたいなのが田舎だとずっと思っていた。
少なくとも、新潟にはバスの走る大通りもあれば大きなデパートやショッピングモールもある。お洒落なお店がいっぱいあるし、流行のファッションに身を包んだ女性もたくさん歩いている。
多少、東京に比べれば見劣りするかもしれないが、、。
「絶対に、新潟は田舎ではない!」
と私は確信する訳だが、どうも子供たちの「どっちが田舎?」の”田舎”はそういう意味ではない。むしろ”どっちが”が重要ポイントなのだ。
ニューヨークより東京が田舎、東京より千葉が田舎、千葉より◯◯が田舎という具合に、比べてみて見劣りする方が”田舎”という事らしい。
つまり、”田舎”認定すなわち格下という事だ。
へ〜、面白い事を言うなぁ、なんて思っていたら、この問題は大人も含めてけっこう根深いのだ。
例えば、
・千葉と埼玉で合同イベントをやる場合「千葉・埼玉大会」か「埼玉・千葉大会」かでマジにもめる。
・茨城と一緒にされる( チバラギとか )のを極度に嫌がる、その割に神奈川県にはあっさり負けてしまう( 負けっていうのがよく分からないが...ー.ー? )。
・”田舎者”とか”田舎くさい”という言葉に非常に敏感に反応する。
新潟人からすると、なかなか興味深い経験をした(笑)。
なまじ大都会の周辺に生まれると小さい頃から苦労が多いのだなぁ…、なんて人ごとと思って見ていたけれど、こういう生まれた土地から来る対抗意識、私は嫌いじゃない。むしろ、ちょっと羨ましかったりする。
大阪のタクシーの運転手さんは「お客さん、東京から?」の質問の後、だいたいが軽妙な関西弁で大阪自慢を始める。
神戸の友人たちは「大阪とは違うから!」という点で見事に一致団結している(笑)。
そんな「あそこと比べてうちは」的な競争心は、新潟の県民性の中にあまりない。
新潟には美味しい米も水も魚もお酒もあって、自慢できるものがたくさんある。他県の人も大いに認めてくれている。
だからとりたてて他と競争しなくても…、という事かもしれない。”田舎”認定に怒る人もまずいないだろう。
そもそも、”どっちが”と考える事を普段から殆どしないような気がする。
他の土地と競うという習慣がないのだ。
だから、「新潟と千葉と、どっちが田舎?」とオール千葉を背負って果敢に質問してきた小さな子を思い出して「ほう、なかなかあっぱれ!」と笑ってしまった。彼女は千葉人として挑戦してきたのだ。
あの時の私が、彼女が千葉人を自覚するくらいに新潟人を自覚していただろうか、と思ったら、残念ながら恥ずかしいばかりだ。
「新潟は田舎じゃないよ〜^ ^;;」と思うばかりで、、。
でも、そんな暢気さがまた新潟人らしいのだろうな。
あれ、昔の思い出話が県民論になってしまった、、。
こんな狭い日本だけれど、ちょっと考えただけでまぁいろいろあるもんだ(笑)。
2016年
1月
31日
日
雪のこと。
ここの所、東京は久しぶりの雪で結構な騒ぎだ。
新潟出身者からすると、日本は広いなぁとぼそっと思う。
このくらいの雪でニュースになるって、まるで外国にいるようだ。
私が生まれた町は湯沢や十日町といった豪雪地帯からはとても遠いので、さほどの大雪は降らない。
でも小さい頃、朝起きて窓を開けると一面の銀世界で、ピンと張りつめた冷たい空気の中、陽の光を反射してキラキラ輝く真っ白な雪を眺めて、泣きたいような笑いたいような気持ちになった事は幾度もある。
たぶん、新潟の人の人生は雪と切っても切れない
新潟の冬。
朝起きると外は猛吹雪。あられ混じりの雪と息もできないくらいの横殴りの風。
通学通勤の老若男女は、ただ黙々と普段通りに学校や職場を目指す。父は車通勤だったが、命の危険を何度も感じたと言っていた。
私もそんな日の朝は、「わ、やだなぁ…。」と思いながらも『明日に向かって撃て!』のラストシーンみたいに(笑)、玄関から外へ頭から飛び出して行く。
天気に文句を言ってみても何になるだろう?
先日、東京で雪が降った時、大学は休講にするべき!・なんで社長は自宅待機を決断しない?といった書き込みがネットにあふれた。
まぁ交通網の規模と状況が違うから比較はできないのだが、そうした書き込みを読みながら、新潟人気質、雪国の人の気質みたいものをちょっと思った。
2011年の大震災。
被災した東北の人たちが見せた信じられない程の我慢強さと秩序正しさに世界中の人が驚いた時、私は日本人がもともと持つ美徳と同時に、雪が降る土地特有の考え方みたいなものがその根底にあるんじゃないかと思った。
困難にあった時、まずは一旦すべてを受け入れるというか、目の前の事実を”諦め”と共に冷静に認めるというか、、。
そんな偉そうな事を言っている私は、20代で新潟の冬から逃げ出した。
真冬の日に見た湘南の青い海が、どうしても忘れられなかった…。
でも、どんなに離れても小さい頃の雪の記憶は消えない。
東京に雪が降った朝、ベランダの手すりにうっすら積もった雪を見てすごく嬉しくて、思わず窓をあけて『もっと降れ〜!』なんて心の中で叫んでいた(笑)。
2016年
1月
26日
火
一月という事で。
年頭にあたり、今年の目標を考えてみた。
とは言ってもすでに二十日以上過ぎている、、。
お正月は帰省せず、東京でダラダラのんびりしていたら、松の内を過ぎた頃からいろいろあってバタバタ忙しくなってしまった。
そんな中、18日に新潟に帰る予定だったのだが、東京は朝から大雪が降った。
予約していた高速バスは運行中止だし西武新宿線は止まっているし、中央線は物凄い遅れだし上越新幹線は大丈夫なのかネットでずっと調べて、ようやく午後になって電車も回復しているだろうと東京駅に向かうことにした。
予想に反して、中央線は間引き運転のせいか朝の通勤ラッシュ並みに超絶混んでいて、荷物ごとぎゅうぎゅう押しつぶされそうな勢いだ。
たどり着いた新幹線はガラガラにすいていたが、朝からの大混乱大格闘で精根尽き果て、コーヒーセットのケーキを頬張りながらぐったりしていたらあっという間に新潟に着いた。
高速バスに慣れた身としては信じられない速さだった(笑)。
実家に帰っても一人だが、高校時代の同級生たちや何十年来の気心知れた友達、久しぶりに再会して近況を報告しあった友人や最近親しくなった近所のお友だちが連日付き合ってくれて、めちゃ楽しい時間を過ごした。
東京の大雪のことなどすっかり忘れてしまっていた。
年頭から山あり谷ありで、ぼっとしていたら今年の目標をまだ考えてなかった事に気が付いた。
さて、2016年。
今年は”なんとなく良い感じ”がする ^-^
まず、2と0と6っていう丸々した数字がいいなぁ....。平成28年の8も丸い。
閏年はちょっとスペシャル感があるし、干支のお猿は愛すべきお笑い系キャラだ。
「気持ちをおおらかに持って、心の角を取って笑って過ごしなさい。」なんて言う声が天から聞こえた気がした。
という訳で、今年の目標は『生活を楽しむ』。
都内の散歩とか旅行とか、今までほとんど考えたことがなかったけれど、面白そうな計画を一つたててみようかな。
一年、楽しいことをいっぱい考えて笑顔で暮らせますように!
このブログを読んで下さっている皆さまにも、素敵な一年でありますように!
今年もどうぞよろしくお願いします。
2016年
12月
31日
土
『2016年』
年の瀬にあたり、この一年を振り返ってみた。
長かったような短かったような、、。
この一年間に書いたブログやFBの記事をざっと見直すと。。
*出不精の私にしては珍しくあちこち出歩いた。美術館や記念館、社交ダンスやロックのライブにも行ったし、美味しいものをいっぱい食べ歩いた。
*今までほとんど考えたことがなかった自分の身体の健康を、ちょっとは気にするようになった。急に痩せて、みんなに驚かれたなぁ。
*近頃、面白い夢をよくみる。夢占いサイトで「ふ〜ん、、」と妙に納得する事もあって、たまに吉夢の場合はその日一日気分がいい。(すぐ忘れちゃうけど。)
*親しい人たちと折にふれ、これまでとは格段に深いレベルの話がたくさんできた。( はっと気付く事があったり今更ながら反省したり、これからまた元気にやっていく力をもらったような気がする。)
*ずっと手探りでやってきた自分のJazzに、ようやくはっきりと目標が見えてきた。
こうして書いてみると、なかなか心身ともに得ることの多い年だったかもしれない。
何より時間がたっぷりあって、気持ちに余裕ができた。( 生徒さんには「先生、もっと仕事たくさんして下さい!」なんてお小言を言われたが・笑)
いかんいかん!ちゃんと日々努力しないと!ってことで、来年の目標。
『もっと仕事たくさんします!.....ん? たくさんしたいです!か?・笑』
オリジナル曲も増やしたいです^_^
今年もブログを読んで頂き、本当にありがとうございました。
どうぞ良いお年をお迎えください。
来年も、みなさまにとって幸せな年でありますように。
2016年
12月
22日
木
鬼平犯科帳
人間国宝・中村吉右衛門さん主演の人気時代劇シリーズ『鬼平犯科帳』が、今月3日の放送をもって終了した。
1989年から全150作。ずっと大ファンだった。
父が生きていた頃は、ビデオにとって家族でよく見ていた。
原作は池波正太郎氏の捕物帳で、江戸時代後期に実在した火付盗賊改方の長官・長谷川平蔵がモデルになっている。
「原作にないものはやってくれるな」という池波氏の遺言で、これ以上は続けるのが難しくなったみたいだ。
オープニングでは毎回、勇ましい捕り物シーンをバックに淡々としたナレーションが流れる。
*** 「いつの世にも悪は絶えない。その頃、徳川幕府は火付盗賊改方という特別警察を設けていた。凶悪な賊の群れを容赦なく取り締まるためである。独自の機動性を与えられた、この火付盗賊改方の長官こそが、長谷川平蔵、ひと呼んで『鬼の平蔵』である。」***
どこか民放らしくない、生真面目なトーンのナレーションだ。
メラメラ火が燃えて、ばったばったと悪者が斬られるめちゃめちゃ派手な捕り物とまったく対照的なのがいい。
エンディングには、日本の四季折々の風景、夏の風鈴売りや冬のそば屋台など町人たちの姿がまるで広重の浮世絵のように美しく映され、ジプシー・キングスの『インスピレーション』がそのシーンにぴったり合っていた。
池波正太郎氏の原作本を読んでいたので、 作品に流れる時代の空気や”男の美学”、密偵たちの人間臭さみたいなものが損なわれることなくちゃんと表現されているように感じて、民放なのに(笑・すみません....)、と感心していた。
本物の「長谷川平蔵」は、徳川家斉の時代に火付盗賊改方の長官だった人で、庶民から「本所の平蔵さま」「今大岡」と呼ばれて非常に人気があった。
罪人の更生の為の施設「人足寄場」を最初につくったことでも有名だ。
幼少の頃から地元のワルとして名前が通っていたらしいが、有能ながら人情味に溢れ、型にはまらない仕事をした豪気な人で、同僚から妬まれたせいで思うように出世できなかったらしい。
小説の中では、盗賊たちから鬼と恐れられる一方、平蔵を慕い手足となって働く密偵たちや部下の役人、妻や友人たちに細やかに心を配る、大胆で厳しいのに温かくて懐が深い人として描かれている。
まさに理想的な上司!ちょっとワルなところもかっこいいわぁ....って事で、男性も女性も絶対にファンになる魅力的な人物なのだが、中村吉右衛門さんは、そんなファンたちの想いを裏切る事なく、もうこの人しかいない!と確信するくらいに「長谷川平蔵」を演じてくれた。
私にとって、「眠狂四郎」の市川雷蔵、「シャーロック・ホームズ」のジェレミー・ブレット、「エルキュール・ポワロ」のデビッド・スーシェと共に、永遠・唯一無二の「長谷川平蔵」の中村吉右衛門になった。
でも「エルキュール・ポワロ」は2014年に最後の作品『カーテン』でシリーズが終わり、市川雷蔵もジェレミー・ブレットももうこの世にいない。
う〜、『鬼平犯科帳』も終わってしまって、この先、何を楽しみに生きていったらいいんだ〜....(泣)。
今は、夜寝る時に、YouTubeで昔のシリーズを順番に見ている。
20年以上前の作品ということで、中村吉右衛門さんはもちろん、多岐川裕美さんも梶芽衣子さんも若い若い!
そしてびっくりするほど綺麗だ。
28年間続いた『鬼平犯科帳』。本当に長い間、お疲れ様でした。
そしてたくさんの感動をありがとうございました!
2016年
12月
03日
土
国際化ー箱根で考えたこと
よく行く三鷹のお店の仲良しなママさんと、箱根に泊りがけで遊びに行った。
登山電車やケーブルカー、ロープウェイを乗り継いで、硫黄の煙がもうもうと立ちのぼる大涌谷から芦ノ湖を望む桃源台まで、箱根の山をホッカイロを握りしめながら大いに楽しんだ。
一面の紅葉や壮大な湖の美しさ、どこでも極上の美味しいものが食べられて温泉もサービスも最高、、日本に生まれてほんと良かった〜、、。
それにしても、電車やロープウェイ・お土産ショップやレストラン、どこも周りが外国人だらけで、日本の国際化をすごく感じた。
だって、銀座や新宿よりも体感密度がめちゃくちゃ高い(笑)。
ロープウェイで一緒だった中国人ファミリーの小学生くらいの男の子が、下界に広がる樹海を見て「アイヤー‼︎」と叫んだ時は、ほんとに中国の人は驚くと「アイヤー‼︎」と言うのだな....と昔、漫画で得た知識が確認されて、非常に感慨深かった(笑)。
お土産ショップにいた中国人の少女( 4~5歳くらいだろうか )が、小さな声で中国の歌を歌っているのがふと聞こえて、その声と姿が抱きしめたいほど愛らしかった。
登山電車の列に並んでいた時、先頭に並んでいたカップルからちょっと離れて私たちが立っていたら、カップルの男性が心配そうに韓国語で話しかけてきた。「どうぞお先に^ ^」と言ったら、安心したのか笑顔で何か言っていたから、きっと順番から外れたか不安だったのだな、、。
帰りのロープウェイでは、シリコンバレーに住む日本人のIT起業家が中東系の友人と一緒に乗っていた。
私がママに、辛坊さんの『そこまで言って委員会』の話をしていたら、「私も見ています。面白いですよね!」と隣りから話しかけてきた。
「私は民主党です。アメリカの民主党支持者は、トランプが勝ったからみんなカナダに移住したい。」と笑いながら言うのを聞いて、日本は安倍さんで安心だなぁ、なんて、箱根の山の上で国際情勢をマジっと考えてしまった(笑)。
東京への帰途で、宮ノ下から箱根湯本までローカルの路線バスに乗った。
山の中をくねくね曲がりながら下るバスに揺られて軽く車酔いになっていると、運転手さんが無線で「⚪︎⚪︎から⚪︎⚪︎地点、イノシシの親子が横断中、注意願います。」と言っているのが聞こえた。
冗談かと思ったら、周りのお客さんたちは”いつも通り”ってな平気な顔をしているから、これは普通に真面目な注意連絡なのだ。
イノシシたちは、よそ者の観光客が昔よりやたら増えてるぞ、用心用心、とかちょっと思っていて、人間たちも、事故がおきないようにそれなりに配慮をしている、という状況かもしれない。
箱根は、地元民にとっても地元動物にとっても、大きく環境が変わりつつあるのだ。
日本はこれからどんどん、外国からのお客さんが増えていくだろう。
訪れる方も迎える方も、お互いが相手を優しく気遣って楽しい時間が持てるようになるといいなぁと思う。
外国からの観光客たちに身近に接して、銀座や新宿でツアーの団体客を離れて眺めていた時とはまるで違う気持ちになった。
2016年
11月
10日
木
まじトラ
「もしトラ」が「まじトラ」でびっくりした。
石破さんも驚きを噛み締めていた、、。(日経ビジネスオンラインより)
日本、どうなるんだろうなぁ。
世界中が慌てて政策会議を開いているはず。
今までとは違う国際情勢になるんだろうか、、。
2016年
11月
05日
土
ハロウィン2016
インターネットではこの時期、渋谷のハロウィン仮装イベントの記事が毎年恒例になっている。
とにかくもの凄い盛り上がりで、写真を見てもみんなの力の入れようが怖いくらいだ。
繁華街にはオレンジかぼちゃとおばけのグッズがあふれ、これでハロウィン・ソングまで登場したらクリスマス以上かもしれない。
まぁイベントの方向性(笑)はだいぶ違うけど、、。
先日、新潟で友人と会った時も飲食店の店先はもちろん、医療クリニックまでハロウィンデコレーションで飾られていた。
「ハロウィンの意味、分かってやってるんでしょうかねぇ....。」友人が思わずつぶやいていた。
そういう私も、通販で可愛いハロウィン・ソックスセットを買い込んで、どれから履こうかにやにや悩んでいる。
日本人はとりあえずお祭りが大好きなのだ。
こんなに盛り上がる前、ハロウィンという西欧の風習が物珍しかった頃の事だ。ライブの仕事が終わって深夜の地下鉄に乗っていた。
渋谷駅で、4〜5人の若い女性たちが慌ただしく電車に乗ってきた。
全員が看護婦らしく、白い制服はびっくりするほど血染めで顔はあちこち傷だらけ。髪もぐしゃぐしゃで、乗車するなりぐったりと座席に倒れこんだ。
私は、何かとんでもない事故か事件が起こったのだと思ってめちゃくちゃ緊張した。
でも乗客はほとんど無関心で、そのうち看護婦たちが「A子、どうしたの?』「先帰ったよ。」「ふ〜ん、、。」てな仲間内の業務連絡を始めたので、私は訳がわからず謎の集団をただ眺めていた。
ちょっと考えれば、夜中の電車に白衣ってのは明らかにおかしいのだが、、。
後から、ちょうどその日はハロウィンだったと知った。
彼女たちは渋谷ハロウィンの先駆けコスプレーヤーだったのだ。
今では、小池百合子都知事がリボンの騎士になり、三越のライオンもとんがり帽子をかぶる。
面白そうな事には飛びついて、とことん盛り上がる日本人だ。
ハロウィンは、日本古来の妖怪趣味とお祭り気質に絶妙にマッチしてすっかり定着した感がある。
きっとこれから、日本独自のお祭りに進化していくのだろうなぁ、、ホラーファンとしてはちょっと期待したいところだ。
2016年
10月
26日
水
オリジナル9
Jazzを弾くようになってから、昔つくった曲をJazzのコンボで演奏できるように少しづつ手直ししている。
久々に1曲、なんとか形になった。20代の大昔(!)に書いた曲だ。
大学を卒業してすぐの頃、新潟で音楽仲間たちとバンドをやっていた。
所有機材はポリシックス( KORGのアナログシンセ )と1Uのデジタルディレイだけで、アドリブできない・リズムは悪いで最悪のキーボードなのだが、とにかくシンセを弾くのが嬉しくて、夜中まで部屋にこもって音作りとかベンドホイールの練習とかしていた。
バンドでは、人気有名バンドのコピーとかYAMAHAポプコンのアレンジとか、一週間集中スタジオ練習とか東京の有名なボーカルさんの新潟ツアーのバックとか、思い出してもなんだかいろいろワイワイと楽しかった。
今みたいにネットに情報があるわけでなく、地域限定で盛り上がっていた。
当時、私は、ロックとクラシックが混ざった感じの音楽-いわゆるプログレッシブ・ロックっていうのに憧れていて、YESの『危機』『こわれもの』やELPなんかを朝っぱらから大音量で聞いていた。
曲も歌詞も難しくてさっぱり理解できなかったが、その糸がもつれたような複雑難解さがめちゃかっこよかった。
どう頑張ってもコピーは無理っぽかったし弾けそうにもなかったので、自分でプログレ風のオリジナルを書くことにした。
ごちゃっとこねくり回した感じの曲(笑)が出来たが、どうもロックというよりクラシックとポップスの混ざった風になったのは、やっぱり私の中にロックの血が流れていないからだろうなぁ....まぁ仕方ない、、。
それでもなんとか曲としてまとまったのは、バンドのメンバーたちが恐ろしく上手かったからだ。
特に、ドラムのTくんは演奏の技術もセンスも素晴らしかった。( 彼は今や、日本を代表するロックドラマーになって活躍中である! )
最近、そのT氏とFBで久しぶりに巡り会って、すっかり忘れていたこの曲を思い出した。『Love Nix Love』
意味は、”かなわない愛”みたいなニュアンスだと思うのだが、曲名を付けてくれたのはTくんである。( 彼は英語がペラペラなのだ。)
私のセンスでは、絶対に絶対に無理なネーミングだ(笑)。
昔の譜面を引っ張り出して眺めてみたら、やっぱりごちゃごちゃっととらえどころがなく、ちょっとこれは....と諦めかけた。
でも、曲中(なか)の、ふわっと何処かに行く感じの部分がすごく良いなぁ、と思ったので、無理やり頑張ってJazzコンボ仕様に書き直してみた。
どこかバロックの雰囲気がある、なかなかロマンティックな曲になった。
それにしても、変拍子、臨時記号だらけで構成も変則的なので、こりゃあJazzManたちはもの凄く嫌がるだろうなぁ。
せめて、きれいに譜面を書き直し、頭を下げてお願いするしかない、、。
先行き不安な『Love Nix Love』だが、時間をかけて少しづつ完成させていきたい。
普段弾いているJazzとは少し違う音遣いを楽しみながら、メンバーにもアドバイスをお願いしてまとめていこうと思っている。
2016年
10月
02日
日
痩せた?
2013年に父が他界し、2014年に母が後を追うように亡くなった。
その二年の間に東京から新潟の実家へ、そして新潟からまた東京へと引っ越しをして、介護をしながら自分の音楽活動の為に月2回、新潟-東京を泊まりがけで往復した。
思い返してみたら、、。
ふ〜、短期間だけどすっごく頑張ったなぁ。
なにせ一人だからね。もう気力だけで、頭、まったく働いてなかった気がする(笑)。
2015年は余力でよろよろ動いて、今年に入ってようやく、自分のペースでものを考えられるようになってきた。
いい感じに充実してきたなぁ、よしよし....。
なんて思っていたら、、。
会う人会う人みんなが、心配そうに「痩せた?」と聞くのだ。
体重を測るという習慣がないので、「うん、まぁ痩せたかもね、大変だったから、、。」てな生返事でやり過ごしてきたが、最近だんだん気になり始めた。
「わたし、そんなに痩せた?」
新潟の実家の体重計に乗ってみたら( 東京の家には体重計がない -_-;; )、3キロも減っていてびっくりした。
あげくつい最近、仕事で久しぶりに行ったライブハウスで「どうしたの?!そんなに痩せて!」と驚かれた。
自分でびっくりはしていても、相手にもそんなに驚かれるとけっこう傷つく(笑)。
もうね、ここまでくると悩んじゃいますね、なんとしなきゃって、、。
う〜、太ってやる〜!と、ただただ固く心に誓うのみだが、もう暴飲暴食をできる年でもないのでなかなか難しい。( 体調はいたって快調なのだし。)
痩せた原因は、2年間の心労や悲しみや過労や年取ったせいやピアノが上手く弾けないストレスやあの人にこんな事言われたことやあの国がほんと滅茶苦茶だったり、、まぁ普通にたくさん思い当たるのだけれど、たぶん、少しづつの変化だったので、自分ではそれほど気にならなかったのだ。
以前、このブログで「太った?」は女性に対して絶対の禁句だという記事を書いたけれど、「痩せた?」もダイエット中の人以外には禁句だと思うのだが、私だけか....?
とりあえず、3キロ奪還。
まずは甘いものかなぁ、、。
2016年
9月
27日
火
美術展
新潟で美術展を見た。
『風景画の世界展』
たまたま招待券を頂いて、美術館が駅の近くだったので東京に帰るついでに立ち寄った。
新潟の資産家である敦井榮吉氏の私蔵コレクションの中から風景画を選って展示していて、横山大観や東山魁夷など、日本画にはまったく疎い私でも知っている有名な画家の作品もあった。
敦井氏は近代から現代にかけての日本画・陶芸の収集家で、そのコレクションは1300点に及ぶ。( 新潟にこんな粋人がいたのだなぁ。)
静かな空間でゆっくり絵を見る時間が好きだ。
展示された絵には、画家の息遣いや絵筆を持った時の手の力、時にはそれを描いた時の心ー何を感じ何を思っていたのかーが表れていて、まるでタイムマシンで時を遡って、その場に立ち会っているかのような気持ちになる。
美術館には、一種独特の張り詰めた空気が流れている。
作品がそれぞれの空気を醸し出している。
美術展というと思い出すことがある。
もう何年も前に、渋谷の東急Bunkamuraに「N.Y.グッゲンハイム美術館」を見に行った。
カンディンスキーの絵を見たくて行ったのだが、他にもピカソやシャガールやマティス....、展示された作品の素晴らしさに圧倒された。
ゆっくりと順番に見ていって、ゴッホの、彼にしては淡い色彩の小さな絵の前に立った時、何故だろう、涙がふっとあふれた。
『雪のある風景』ー溶け始めた雪が所々に残る冬のアルル(南フランス)が描かれている。
私は絵からちょっと離れて立っていたのだが、その絵の前に、一心不乱に絵筆を動かすゴッホの後ろ姿が見えた気がした。
冷たい冬の午後、ひと気のない平原で冷えた手を温めながらキャンバスに向かう彼の姿を、絵と同じ空間の中に感じた。( ポケモンGoみたいなイメージ。)
何故涙がでたのか。その時は分からなかったし、深く考えることもなかった。
(彼の気の毒な境遇-世の中になかなか認められない事-を可哀想に思ったんだろうか?)
そんな同情とは決して違う、もっと不思議な感情だったのを覚えている。
今、この記事を書きながら、あの時のことを思い返してみた。
私が見たと思ったゴッホの後ろ姿。
私はそこに、彼の必死さを感じたんじゃないだろうか。
自分の芸術に対するひたむきな熱情、それよりもっともっと強い彼の”必死さ”をきっと感じたのだ。それに胸を突かれたのだと思う。
もちろん、ただの思い過ごしかもしれない。
でも、そう考えたら何だかとても納得した。
それにしても謎は残る。
何故この絵だったんだろう? 他にもっと有名な大作があるのに....。
穏やかな小さな絵。
芸術家と作品の間には、凡人には計り知れない”神秘なもの”が在るんだろうか、、。
もしかしたらあの時の涙は、その神秘に触れた貴重な一瞬だったのかもしれない。
この世には不思議な事がいっぱいあるのだ! (....と私は信じたい・笑。)
2016年
9月
14日
水
エゾシカ-Part2-
小さい頃、手塚治虫の漫画やディズニーの映画をよく見た。
画面の中のジャングルや深い森の奥は、子どもにとってお城の舞踏会やお姫様と同じように夢の世界だ。
『ダーウィンが来た!(NHK)』なんて当時はやってないし、アフリカや南米の森林地帯が実際どんな所なのか想像もつかない。
物語の動物たちは、兎や鹿などの草食動物はたいてい優しくて愛らしく、狼や虎やハイエナは狡猾で残忍で恐ろしげだった。
ストーリーに引き込まれると、可愛い動物たちを苦しめる肉食動物はなんて邪悪な存在なのだろうとおびえ、こんな悪者は地上からいなくなってしまえと願った。
ジャングル大帝のレオは例外で、まぁ全ての動物の王者だし、彼が毎日何を食べているのかなんて小さい子は考えなくて良いのだ。
こうして、世の中の事をまるで知らない子供が大人になって、ある日突然、自分が地球史上最強・最恐の肉食動物になっている事に気付いてびっくりする。
びっくりしない人の方が多いが、ショックを受けて、動物を一切食べない菜食主義者になる人もけっこういる。
『自分はなんて罪深いことをしているのだ、、。』
因みに私は、美味しく生まれてしまった海老やマグロや牛や豚は気の毒だなぁ、なんてお気楽な事をぼっと思っていた。
先日、地元の新潟で、”エゾシカ”と”鯨”という普段食べ慣れない食材を食べた。
美味しさに心底感激しながら、またむくむくと、考えなくてもいい事、あるいは考えてもしょうがない事を考え出した(笑)。
どうして”エゾシカ”が急に食卓に上るようになったのか。
どうして”鯨”を食べる事を世界の人が批難するのか。
ちょっと調べてみた。
”エゾシカ”は、天敵の狼を全滅させてしまったせいで増えすぎた。その結果、いろいろ困ったことが起きて、処理する=食べることにしたのだ。
人間が特定の動物を保護した結果、生態系が崩れてしまった。
反対の事例が、特別天然記念物ー国際保護鳥のトキだ。
私の地元・新潟県の佐渡トキ保護センターでは、明治から大正時代、肉や羽を取る目的で乱獲されて国内絶滅したトキを、人工繁殖・飼育で日本国内に復活させる試みを続けている。
”鯨”について言えば、反捕鯨は食の文化に対する攻撃だとする論調がある。
食用の家畜という文化に馴染みがない私たち日本人には、ハンバーガーをほおばりながら「鯨を殺すなんて残酷だ!」と叫ぶのは奇妙に映る。
菜食主義者たちから言われるのなら、まぁそう、、鯨、可哀想だよね...。
でも、そういう文化についての議論は永遠に平行線なので、今は生態系の維持について絞ってみる。
インターネットに、日本捕鯨協会の『反捕鯨団体の言われなき批判に対する考え方』という記事があった。
http://www.whaling.jp/taiou.html
***世界中の鯨類が捕食する海洋生物の量は、世界の漁業生産量の3〜5倍に上ります。、、、鯨類が大量の魚を捕食していることは事実であり、鯨を間引くことでその分人間が魚を利用できることは間違いありません。、、、また、クジラは海の食物連鎖の中で最上位の捕食者であり、クジラだけをいたずらに保護することは海洋生態系のバランスを崩すことになります。***
他にもたくさん、反捕鯨の意見に対する<回答>が書かれていて、欧米の記者たちの感情的な記事よりはよほど説得力があると思った。
政治的なことはよくわからない。
でも、生態系のバランスという点で、”エゾシカ”と”鯨”、すごく似てるなぁ、、。
私たちは、地球史上最強・最恐の肉食動物だ。( ティラノザウルスより凄い。)
すべての生き物の最上位にいる。彼らの命をもらって命をつなぐ。
その意味で、子どもの頃に感じた”邪悪で残忍な悪者”そのものだ。
大人になった今、その事実に気付いてがっかりする。
”人間”という動物がやっている事、でもそれは生きていく為に仕方がない事だと諦める。(ずっと昔からそうしてきたし、これからもそうなのだ、、。)
そして、なるたけ考えないように心がける。(慣れてしまえばいいのだ、、。)
食物連鎖の頂点にいる者として、人間ができる事ってなんだろう?
好ましい動物を保護することか、害のある動物を絶滅させることか、工場で生産するように動物を飼育することか、命を奪う事を可哀想だと思うことか?
『動物を食べる』ということが、『植物を食べる』のと同じような感覚になってしまって、何も考えなくなる、何かを感じても深く考えなくなるということが、実はとても怖い事なんじゃないだろうか。
考えても結論が出る話じゃないし、何が正しいかなんて誰も言えない。
けれど、”エゾシカ”と”鯨”はそういう問題に向き合うきっかけをくれた。
頭の中がごちゃごちゃ・もやもやしているが、いろいろ考えてやっと一つだけ、答えを出した。
私は、日本の調査捕鯨に賛成だ。
”鯨”が食べたいからじゃなくて( 美味しいけど )、海洋生態系を維持するには、”鯨”が少なすぎても多過ぎてもきっと大きな影響がでる。
”エゾシカ”みたいなことになってほしくない。
だから、ちゃんと研究してコントロールしてほしいと思った。
地球上の全生態系に対する責任が、最上位にいる人間にはあるんじゃないだろうか。
でも、どうして人間だけがこんなに進化して最強になっちゃったんだろう?
未来のある日、人間より賢い生物が突然変異で現れるか宇宙からやって来て、あるいはAIがどんどん自己進化して暴走して、人間が完全に支配される側になったら世界はいったいどうなるんだろう?
、、うぅ、いかん、また、、.。
2016年
8月
23日
火
エゾシカ-Part1-
幼馴染みで高校の同級生・K氏は、生まれ育った新潟市の事ならほとんど何でも知っている。
「すごいねぇ、、。」と尊敬すると、「何年ここに住んでると思うのよ。」と笑う。
私なんぞ東京に◯十年住んでいても、東京タワーにもスカイツリーにも登ったことがない。
そのK氏が、新潟・古町にある高級串揚げ屋さんに連れていってくれた。
大通りから抜けて狭い路地に入ると、こじんまりとちょっとお洒落な小料理屋さんや割烹・飲み屋さんが軒を連ねる。古町は、粋で風情があって大好きな街だ。
その串揚げ屋さんも垢抜けた店構えで、ちょっとお寿司屋さんみたいだなと思った。
店に入ってコの字型カウンターの席に座ると、小柄な店長さんが、丁寧に下ごしらえした野菜や肉・魚などの食材を目の前で次々に揚げてくれる。
こちらのペースを見ながら、絶妙なタイミングだ。
冷えたお酒を飲みながらK氏と話をするその合間に、一品一品、食材の説明と食べ方( 塩で、タレで、そのままで、とか....)をちょこっとつぶやきながら、カウンター越しに置いていく。
「アスパラです。」
「甘鯛です。」
「蓮根です。」
「村上牛です。そのままでどうぞ。」
そんな至福のひと時を過ごしていたら、店長さんがぼそっとつぶやいた。
「エゾシカです。タレで、、。」
ふむふむ、エゾシカね....、え、エゾシカ?、、エゾシカって、、あのエゾシカ?隣りのK氏は、別段何事もなく美味しそうに食べている。
極寒の北海道の冬。
人里離れ、見渡す限り雪と樹木だけの山野を背にしてこちらを静かに見つめる一頭の『エゾシカ』。
その神々しいまでに威厳ある姿が目の前にぽっと浮かんだ。
カレンダーや旅行雑誌のカラー写真でよく見るあのショットだ。
「エゾシカは食材で普通にあるんですか?」と聞いたら、
「はい。」とそっけなく言われて終わりだったので、それ以上は聞かず、雑念(笑)を払って初めての味を楽しむ事にした。
翌日、やはりどうにも気になって、インターネットで調べてみた。
”北海道のエゾシカくんたちは、今いったいどうなっているんだ?”
『エゾシカ』で検索すると、Wikipediaの説明文の次に『北海道でエゾシカが増えすぎて困っている件』というブログの記事がど〜んとあった。
それによると、、。
・北海道では、増えすぎたエゾシカが農作物や森林の樹皮を食い尽くして、甚大な被害がでている。
・エゾシカ出没による交通事故や列車事故も頻発している。
・こんなにエゾシカが増えてしまったのは、捕食者であった狼を人間が絶滅させてしまったから。
・「再び狼を野に放とう」という動きもある。( アメリカのイエローストーン公園での成功例あり。)
・しかし慎重論もあり、代わりに進んでいるのが「食肉としてのエゾシカ」である。(『エゾシカ食肉事業協同組合』)
ふむ、なるほど、、。
それで、北海道のエゾシカくんが、新潟・古町の高級串揚げ屋さんの冷蔵庫に入ることになったわけだ、、。
実は先日、これも新潟での話なのだが、『鯨汁(くじらじる)』という郷土料理を初めて食べた。
夏の定番料理ということだが、我が家では何故か一度も食卓に上らなかった。
新潟大学の数十年ぶりの同窓会で行った老舗料亭で出されたのだが、鯨がこんなに美味しいものだとは、日本人なのに-新潟人なのに-ちっとも知らなかった。
( 昔、給食で食べた鯨の竜田揚げが本当の『鯨』だと思ってはいけない -_-:: 。
あれはあれでけっこう好きだったけど....。)
捕鯨についてはいろいろ議論がある。
一方的に日本が悪者にされている感じだが....。
外国人が言う”捕鯨は残酷な悪行”って本当だろうか?
エゾシカと鯨、”動物を食べる”という事についてちょっと考えたくなった。
***Part2に続く***
2016年
8月
14日
日
森鷗外-Part6- 記念館へ
***Part5より続く***
文京区立森鷗外記念館は、森鷗外の生誕150年の2012年、千駄木の旧居「観潮楼」の跡地に建てられた。
もともとこの場所には文京区立鷗外記念本郷図書館が建っていて、もう十年以上前になるが、敷地内に残っている有名な「銀杏の木」や「門の敷石」「3人冗語の石」の写真を撮って、上野精養軒でコーヒーを飲む、という私的ミーハー鷗外ツアー(笑)をやった事がある。
精養軒という老舗西洋料理店は、明治の文豪たちと非常に関わりが深く、鷗外や漱石の小説にも登場するし、留学を終えた鷗外を追ってドイツから来日したエリスが泊まったのが、築地精養軒であった。
築地精養軒は関東大震災で全焼し、現在は上野が本店である。
新しく改築された森鷗外記念館のことはインターネットで知って、ずっと行きたいと思っていた。
ファンの心理として、このような場を訪れるときのタイミングは、万全の体調と万全の環境を要求する。つまり、気分が良くて天気が良い日だ(笑)。
待望のその日、朝から何だか嬉しい。
今回は、他の場所も見て回るというようなツアーではなく、鷗外記念館だけをじっくりゆっくり観ることにした。
電車の乗り換えを調べて、いざ文京区千駄木へ。
どっぷりと、鷗外と明治という時代に浸った半日だった。
鷗外が亡くなる一年前、何かの行事の際に広場を足早に歩く映像が残されていて、ほんの2〜3秒の短いものだったが、実際の鷗外の動く姿が見れて感激した。
何回も見てしまった(笑)。
5月からほぼ3ヶ月間、鷗外について、とりとめもなくいろいろ書いてきた。
作品もいくつか読み返した。
今日の記念館では新しい発見もあった。
何故だろう、こうやって鷗外と向き合うことで、自分の心が慰められるような、癒されたような気がしている。
こんな気持ちになるなんて、我ながら意外だった。
明日からまた頑張ろうと、ただそれだけをまっすぐに思った。
力をもらった気がした。
2016年
7月
27日
水
森鷗外-Part5-『半日』について
***Part4より続く***
前回の記事で、「次回は、文京区千駄木の森鷗外記念館に行きます^ ^」なんて、珍しく前向きな事を書いてみたはいいが、最近なぜだか忙しく、せっかく暇でも雨が降り出したりで、鷗外記念館訪問は来月に先送りとなってしまった。
そこで今回は、鷗外の問題作『半日』について書いてみようと思う。
なぜ問題作かというと、この作品は、鷗外の私生活の秘密の暴露なのだ。
発表当時、誰が読んでも「あ、鷗外夫婦の話である。」と分かるくらいあけすけに、森家の台所事情まで晒して、嫁姑の御し難い仲の悪さを夫の立場から客観的に書いている。
嫁の気持ち、姑の言い分までちゃんと書いた上で、「もうお手上げである。」と降参しているのだ。
嫁が呪詛のように繰り返す姑に対する不満や悪口の合間に、置き時計の音が静かにチクタクと鳴るのがホラー映画のように不気味だ(笑)。
鷗外の妻シゲさんは、作品が雑誌に発表された時「なんてことするのよ!」と大慌てだったろうと思う。
石川啄木も、読んでびっくりしている。
世の中の人はたいてい驚き呆れたと思う。
そして鷗外は、態度が改まらないようなら第二作めを出すぞ、と妻シゲさんに宣告するのだ。
そう言いつつも、お前も小説を書いてみたらどうだと勧め、妻が書いた原稿を赤ペンでびっしり添削している。その赤ペンで真っ赤になった原稿を持って、シゲさんはいそいそと出版社を訪れるのだ。
なんかいいなぁ、、と思う。
鷗外は意地が悪いとか冷たいとかいう人がいるが、私はそう思わない。
森家の嫁姑問題はかなり深刻であった。
鷗外も苦慮のあげく、日本で最初の二世帯住宅ー嫁と母が家の中で顔を合わさずにすむ造りーを考案している。
現代も続く永遠の難問題を解決するなんて事は、家族制度が根本的に変わらない限り不可能に近い。
小説の中で「博士」は、「奥さん」のいつもの理不尽な悪口と罵りに怒りと諦めを感じながらも、御所に参内する公務を休んでまで『半日』延々と「奥さん」と対峙する。
机と火鉢を隔てて「奥さん」と真正面から向き合うのだ。
これってある意味、凄い事じゃないだろうか?
妻の癇癪に、「また始まった...。」と逃げ出す、耳をふさぐ、他の場所に楽しみを見つける、離婚して追い出す、、まぁいろいろな対し方があるだろうが、この「博士」は実に辛抱強い。
過去何回もこうした話し合いがあって、全部が実を結ぶことなく虚しく終わっている。
それにもかかわらず、「博士」は「奥さん」の訴えを半分聞き流しつつも無視することはしないのだ。
実際に鷗外は、周囲の離婚を勧める声にまったく耳を貸さず、晩年は夫婦水入らずの穏やかな日々を送っている。
鷗外という人は、目の前の問題に対して常に誠実であった。
自分の力が及ばない場合でも、精一杯我慢強く、誠実であろうとした。
『半日』を久しぶりに読んで、そんな事を思った。
***Part6に続く***
2016年
7月
16日
土
森鷗外-Part4-『書くこと』について
***Part3より続く***
このブログは、5年前にある人の勧めで始めた。
最初は何を書いたらいいものか、億劫に思う気持ちと続けられるかという不安、読んでくれる人などいるのだろうかと限りなくマイナスに考えていたが、
「田崎さんの好きなものを書けばいいんですよ^ ^ 」の一言で俄然やる気が出た。「えっ? 好きなこと、書いていいの?」
昔から私は変なヤツだったと思う。
私が好きなもの、興味がある事、面白いと思った事、いろいろ考えた事なんかを話し出すと、だんだん相手は無口になる。
私の話が滔々と長いのと、妙に熱を込めて力説してしまうので、相手がしらけて退屈してしまうのだ。
話題もたぶん一般的じゃない。普通の人が、なんでそんな事を?と逆に驚くような事、例えば『母系社会と父系社会はどちらが幸せか』とか(笑)、聞く人にとってまったく迷惑千万な話だ。
思い返してみると、私の興味は随分と偏っていて、しかもどうでもいい事を無駄に深く考えてしまう傾向がある。
この重大な欠点に気付いてからは、だいぶ言動に気をつけるようになった。(それでも時々やらかしてしまうが、、。)
自分の好きなものについては、気を付けてあまり話さなくなった。
だから、ブログを書き始めた頃はそれはもう嬉しかった。
考えたり思ったりした事を文字にする。なるたけ正確に、嘘や誇張がないように簡潔な文章にする。
その作業がとても楽しい。
頭の中に散らかった思いや考えがまとまっていくのは、本当に爽快で気持ちがいいのだ。
そして近頃、今までとちょっと違う「書く事の楽しさ」を発見した。
文章を書く事は、色や形や大きさの様々な小石を使って一枚の多色濃淡の貼り絵を作るような作業だと思う。
絵に嵌め込む為の小石を、澄んだ水の小池の底からあれやこれやと拾い上げる。どんなに色が美しい小石でも、大きすぎたり形が合わなければ池に戻すしかない。
その拾い上げたり戻したりは、文章を書きながらどの言葉を使おうかあれこれ悩むのと似ている気がするのだ。
そして、Jazzの即興演奏で音を選ぶ感覚ともよく似ている。Jazzの場合はほとんど瞬時の選択だけれど、、。
言葉を選ぶ、アドリブのスケールを選ぶ、どちらも選択肢がたくさんあって楽しい。
選んで決める事の繰り返しを、自由に、自分の思うままにできる事がこの上なく楽しいのだ。
だから、ブログの記事を書き始める時は、ピアノに向かう時のようなちょっとしたワクワク感がある。
今回『書くこと』についていろいろ考えたのは、この3ヶ月ほど、ブログで鷗外について記事を書いてきて、ちょっと面白いことを思ったからだ。
遥か昔に図書館で森鷗外全集の書架を見上げた時、その膨大な量に圧倒されて、なんて勤勉で自制心の強い人なんだろう!と思った。恐るべき努力の人だと思った。
その時の驚きは本当によく覚えている。
そういう面は確かにあるだろう。
でも、どういう訳か私の頭の中に、ふんふんニコニコしながら机に向かってペンを走らせている鷗外の姿がぽっと浮かんだ。すっごく嬉しそうだ。
こんな妙な事を想像したのは多分、私がブログで曲がりなりにも『書くこと』を始めたからだ。
私の『書くこと』が小池から小石を拾い上げる事だとすると、鷗外の『書くこと』は、とてつもなく大きく深い湖の底に、誰も見たことがないような美しい小石が見渡す限りに散らばっている、高い山の頂から湖の底を俯瞰するとぴったりの小石がきらきら光って見える、魔法のように杖を振るとぴゅっとその小石が飛んで来る....(笑)、、てなふうじゃないだろうか。
鷗外の博識さは半端なものではなかったから、冗談ではなく、本当にそんな感じだったかもしれない。
もしそうなら、どんなに『書くこと』が楽しかったことか!
そして、彼の中で生まれる様々な思考は的確に表現され外に出されたのだ。
鷗外にとって『書くこと』は、面白くて愉快な事である以上に、息をするように必要なことだったのかもしれない。
私の勝手な思い込みだけれど、ちょっとだけ鷗外を近くに感じて嬉しかった。
次回は、文京区千駄木の森鷗外記念館に行きます^ ^
***Part5に続く***
2016年
6月
21日
火
森鴎外-Part3-
***Part2より続く***
鷗外研究者やファンにとって「エリス事件」の真相は、長年”最大の謎”だった。
エリスとはどんな素性の女性であったか、、。
多くの研究者たちが、下宿の娘・娼婦・ユダヤ人の人妻など諸説発表しているが、どれも確定に至っていない。
私も、近くの公民館でエリス研究についての講演があればいそいそと出かけて行ったし、新聞やネットでも気が付く限りチェックしていた。
明治の文豪・森鷗外が愛した女性である。、、まぁ私の場合は学問的探究心とは程遠く、この人がいかなる女性で鷗外と何があってどんな人生を送ったのか、純然たる個人的興味(笑)で知りたいと思った。
そしてついに2011年、多くの鷗外関係者が、これが真実であろうと得心する発見が発表された。
ベルリン在住のフリーライター・六草いちかさんが、エリスの本名が「エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト」であり、仕立物師の母親と暮らしていた事などを、大変な苦労の末に見つけ出したのだ。
Amazonの紹介では『永年の論争に終止符を打つ。日本文学史上最大の謎、森鷗外「舞姫」モデルついに発見!』とある。
本を読みながら、青年・鷗外が目の前に現れるような気がした。
古いドイツの街並みや道を走る馬車、手書きで記された当時の名簿、エリスと初めて出会った場所かもしれない教会の門の扉、、、それらの写真を通して生身の鷗外、森林太郎の横顔が浮かんだ。
本当のエリスの素性が発見された事で、これからの鷗外研究に新しい視点が加わる事になる。
六草さんのインタビュー記事がインターネットにあった。
(“ドイツNewsDigesut”の特集記事(2012.3/2)『生誕150周年記念・森鷗外とベルリン』より一部抜粋 )
*今回の執筆の過程を通して、六草さんは鷗外の人間像をどのようにご覧になりましたか?
「鷗外とはどういう人だったか?」、それを一言で表すなら「愛の人」だったと思います。
それは恋人や妻に対してだけでなく、友情だったり、母親や家族に対してだったり、人として愛する気持ちが強かったということです。
例えば、お弟子さんたちが鷗外について語っている回想録を読むと、誰もが「自分は鷗外に愛されていた、よくしてもらっていた」と感じています。
鷗外の子どもたちの手記の中には、「自分が一番お父さんに愛されていた」と書いてあります。
子どものために独自の教科書を作ったり、夜中にトイレに連れて行ったりなど、彼は愛情をもって子どもたちに接していました。
私生活ではいろいろなしがらみがあったようですが、自分を失わず、また人を愛することを失わずにいたのだと思います。(六草いちか氏)
六草さんは、最初に『舞姫』を読んだ時、なんて酷い話だと本を投げ出すほど怒ったそうだ。
自分の子を身ごもった女性を捨てる身勝手な男の話だから、まぁ無理もない。
鷗外を全く好きではなかった彼女が、エリス=エリーゼについて調べるうちに少しづつ鷗外への理解を深めていった。
「愛の人」は、ただ「優しい人」とは違う。相手に与える愛をたくさん持っていた、そしてその愛はとても誠実で理性的なものだった、、私はそう思う。
人として、男性として、父として、友人として、家長として、、。
作家や官僚・知識人としての公的な立場以外の様々な面が研究者たちによって明らかにされている。暗い面ももちろんある。
それでも、鷗外を知れば知るほどその人柄に魅きつけられる。
鷗外は40歳で再婚するのだが、その見合いの席の様子を娘・杏奴(アンヌ)さんがお母さんから聞いている。
「…、母は父を一眼見て気に入ってしまった。顔も厭ではなかった。どんな所が一番気に入ったのかと聞いて見たら、態度と、それから声が非常に気に入ったと答えている。全く父の声は少し濁を帯びて、低く柔い響を持っていた。」
ふ〜ん、その声、めちゃ聞いてみたかったなぁ....。低く柔かい声、、。
まったく私は、”超ミーハー鷗外ファン”なのである(笑)。
***Part4に続く***
2016年
6月
13日
月
森鷗外-Part2-
(そうとう昔の話になるが....。)
大学卒業で国文学の論文を書くにあたり、鷗外=森林太郎について、小さい頃の事やらいろいろ調べ始めた。
そうすると、彼は本当にとんでもなく優秀な人で、幕末の藩医の家柄である森家一族の期待を一身に受けて育った超エリートと分かった。
10歳からドイツ語を習い始め、東京大学医学部を最年少の19歳で卒業している。
そもそも、この時代の日本のエリートたちの優秀さは半端なものではなかったと、いつだったかテレビの情報番組で見た覚えがある。
小学生時分から過酷な試験をいくつもパスしなければならなかったとか…。
ただ頭が良いとか勉強ができるのではなく、『坂の上の雲』や長州五傑(『長州ファイブ』)などの史実を見れば、自分の命と引き換えにするくらいの物凄い精神的強さを持って、開国したばかりの国の為に働こうとした人たちが明治の日本には相当数いた。
鷗外も、日本の未来を背負うべくドイツへ官費留学する。
ドイツ留学中は、友人や下宿人たちと親しく付き合い、勉強・研究ばかりではなく、舞踏会や宮廷劇場で貴族と交際したり美術鑑賞や観劇したり、それはもうヨーロッパ文化を思う存分に吸収した。
ドレスデン地学協会では、日本について講演したナウマンというドイツ人学者に流暢なドイツ語で論争を挑んで話題になったりしている。
行動がなかなか派手である(笑)。
(これらの事は、英国留学中に神経衰弱で引きこもりになった漱石とよく比較される。)
そんなドイツ留学時代に、鷗外はあるドイツ人女性と恋に落ちた。
この恋愛を題材にして『舞姫』が書かれるわけだが、実際に、帰国した鷗外を追って、たった一人で長い船旅を経て来日したドイツ人女性がいた。
この人が「エリス」である。
鷗外の周りでは、家族はもちろん親戚、友人、軍部の上司までもが「とんでもない事!」と驚いて、結局、彼女をドイツに追い返してしまった。
これから立身出世をするであろう大事な家の跡取り息子に、変な傷をつけてなるものかって感じだったのかなぁ、、。
この事件については、家族の言葉や陸軍関係者の日記・その後の鷗外の小説などから、断片をつなぎ合わせて推理するしかない。
当時の日本において異国の女性との恋愛はスキャンダル・醜聞扱いだったから、周囲はうまく処理して何事もなかったことにしたかったに違いない。
***Part3に続く***
2016年
5月
08日
日
森鷗外-Part1-
国文科を卒業する時、選んだ卒論のテーマが『森鷗外』だった。
大学で国文科に入ったのは源氏物語に興味があったからだが、受けた講義が全く期待とずれていてすっかりやる気が失せてしまった。
学問研究は、ロマンチックな感性ばかりでどうなるもんじゃない(笑)。
その時期のひょんな巡り合わせで音楽の世界に舞い戻るわけだが、そうは言っても大学を卒業するには卒論を書かなければならない。
どうするかなぁ…、と考えた時にポッと心に浮かんだのが、昔読んだ森鷗外の『舞姫』だった。
日本人のエリート官僚とドイツ人の貧しい踊り子の悲恋の物語ー古めかしくも気品ある雅文体の文章が、昔のヨーロッパ映画のような光と影の世界をベールの向こうに描き出す。
生々しい男女の恋愛について何か感想を持つほど大人じゃなかったが、とにかく美しいなぁと思った。
そしてその主人公のモデルが鷗外自身であることを知って、なんだかドキドキしたのを覚えている。
その時は小説に感動したというより、作者に興味を持った。『森鷗外』ってどんな人なんだろう?
卒論を書くにあたって、これから1年どっぷりと向き合うなら『森鷗外』以外ないように思えた。
漱石も谷崎も選択肢にない、何故か不思議な運命のように鷗外に惹きつけられた。
しかし、ここに一つ重大な見落としが、、。
鷗外が明治の文豪な事は知っていたが、あそこまでの大文豪とは思わなかった。
( 見通しが甘いのは昔から -_-;; ほんと笑い事じゃない....。 )
県立図書館に行って、鷗外関連の書籍の多さにマジで倒れそうになった。
全集も全38巻。書架を見上げて汗が出た。
鷗外の著作量は、400字詰め原稿用紙を毎日4枚、休まずに書いたくらいの量なんだとか、、。
陸軍軍医総監・高位の官僚で、明治の日本文化の啓蒙活動家でもある。
公務の他に公私の人付き合いも半端なく多かったはずで、そんな多忙な日々を送りながら、翻訳・評論・詩歌・小説・史伝・随筆などを多数執筆した。( 軍医として学術論文も書いている。)
日露戦争従軍中は、若妻と1歳になったばかりの長女・茉莉を思いやって、熾烈な戦闘の合間に愛情溢れるチャーミングな手紙をたくさん送っている。
4人の子供たちからは絶大に愛され信頼された。
4人全員が父親について本を書いていて、それを読むと、家庭人として鷗外がどれほど愛情深い人であったか胸が痛くなるほどである。
いったい、いったい鷗外ってどんだけ超人なんだ?!
小さな子が映画のスーパーマンに憧れるように、私は鷗外を敬慕した。
たくさんの作品や文献を読むうちに、彼が抱えていた苦悩や哀しみも見えてきた。
様々な事が自分の思いとかけ離れていく現実の中で、それでも自分の持てる能力すべてを尽くして国に報いようとし、家族や友人を誠実に愛した。
とてつもなく賢く、心の大きな人だったのだと思う。
私の大学時代はろくに勉強しないダメ学生だったが、唯一、『森鷗外ー森林太郎』という人の”生き方”を知れた事は、私の大切な宝物になった。笑っちゃうくらいに見通しが甘かった事が幸いした。
無謀にも”テエベス百門の大都”を前にして、無我夢中・しゃかりき一生懸命に書いた私の卒論。
教授に「なかなか面白かったよ ^ ^ 」と言って頂いたが、多くの研究者たちの意見の引用ばかりで、今思い返しても稚拙で浅薄でひとりよがりで恥ずかしい限りだ。( 提出した後、大学に取りに行っていない、、。 )
年月を経た今、論文でも研究でもなく、ただ自分の好きな事だけを書くブログでこうして鷗外についてあれこれ考えている事を思うと、ちょっと不思議に思う気持ちと嬉しさがごちゃまぜになって、何やら幸せな気持ちになる。
『舞姫』がポッと心に浮かんだあの瞬間は、まさに運命だったのだなぁ、と思う。
2016年
5月
04日
水
モロッコいんげん
駅前商店街の八百屋さんで買い物をしていて、トマトの隣に長さ20センチ以上もある巨大なさやいんげんを見つけた。
”わ、なんじゃこれは、、。”と思って、お店の若者に聞いたら「あ、それ、モロッコいんげんです^ ^」と教えてくれた。
「へぇ、モロッコから来たんだ....。」と感心したら、お店の人たちにめちゃめちゃウケた。
「いえいえ、長野でふつ〜に育ったやつです。」さっきの若者が笑いながら言う。
ふぅ〜ん、そうなんだ。私が知らなかっただけでかなりポピュラーな野菜らしい。
帰り道、一つ利口になったなぁ....、なんてふんふん得々と歩きながら、突然はたと思った。
じゃあ、なんで”モロッコいんげん”なんだ?
カリフォルニアオレンジはカリフォルニア、フィリピンバナナはフィリピン、台湾バナナは台湾、なのにモロッコいんげんは長野....。~_~?
早速、インターネットで調べてみた。
・モロッコいんげんの原産地は地中海沿岸。モロッコではない。
・昭和51年から日本で販売された。
・当時、モロッコを舞台とした映画「モロッコ」や「カサブランカ」などがヒットしていて、それにあやかり命名された。
つまり、”モロッコ”が当時たまたま巷で流行っていて、それにあやかって付けられた名前であり、この野菜の出自にも外見にも性質にも全く関係が無いのだ。
そう分かってみると、目の前の大きな”モロッコいんげん君”が、何とも哀れで頼りなげに見えた。
日本に来て既に40年、もうそろそろ本人的に納得できるネーミングを考えてあげてもよさそうなものだ。
最近、スーパーの野菜売り場で、新顔野菜( ロマネスコとかグラパラリーフとか )が高級そうな名前で幅を利かせている事だしね、、。
2016年
4月
18日
月
地震
ここ数日、インターネットニュースをちゃんと見ずに過ごしていた。
今朝、熊本の地震がさらに大変な事になっているのを知って愕然とした。
こういう時、テレビがないと全く情報が入ってこない。
自分の怠慢でもある。
ほんの数年前の恐怖と混乱を思い出した。東京にいても、毎日が不安で不安でしょうがなかった。
今、被災地の方々は、もっともっと不安を感じておられると思う。
被害の写真を見て呆然とした。
救援隊が多数、派遣されているようだ。
情報を探して、しっかりと知らなければいけないと思った。
熊本の皆さんの安全な生活が1日も早く戻りますように。
2016年
3月
15日
火
ともだち
先日、18年振りに再結成したJazzコンボの仲間たちとライブをやった。
18年前、Jazzについて殆ど知らなかった私に様々な事を教えてくれた大好きな人たちだ。
教える、と言っても言葉ではなく、とにかくいろいろ聴いて自分の音を出してみんなで遊ぶ。そのうちにJazzってこんなんかなぁ、、とおぼろげに見えてきた、という感じだ。
初心者にはハードルが高いジャムセッションも、<みんなで行けば怖くない!>って勢いでたくさんのお店に行ったし、合宿したりバーベキューしたり温泉に行ったりお祭りで演奏したり、まぁ本当に本当に楽しかった。
Jazzとの最初の出会いがこのメンバーだったからこそ、今、私はこうしてピアノを弾いているのかもしれない。
ずっと会っていなくても、会えばすぐに昔と同じ顔になる。
それが『ともだち』だなぁって思う。
18年振りの仲間たちのライブ。演奏しながら、懐かしさと嬉しさで心がいっぱいになった。
私の隣りの可愛らしい笑顔の恵さん、ボーカルのゲストで参加してくれました。ともだちの輪が広がっていきます^ ^
2016年
3月
15日
火
夢占い
他人の夢の話を聞くのはちょっと忍耐が要る。
”興奮冷めやらぬ”だから、人によっては微に入り細に入り丁寧に説明してくれるので話がやたら長くなる。
どこで相槌を打ったらいいものかよくわからない。
落語みたいに、聞いた最後にこれは夢でしたってオチがつくならかなり楽しめるが、最初から夢と分かっていたらどれだけ凄い話でも全然びっくりしない。
そんな訳で、自分の夢の話はめったに人にしない。話さないからすぐに忘れてしまうし、だいたいがそんなに夢を見ない。
でも数年に一度くらい、起きてから「ふへ〜?」と呟く変テコなやつを見る。
強烈なのは今でも2、3覚えている。
最近、インターネットで夢占い(夢診断)なんてのを発見して、面白そうだから昔見た夢をいくつかキーワード入力してみた。
意外な回答が出てきてちょっとハマった。
『前向きな気持ちで何事にもチャレンジできる状況です。』
『あなたの未熟な一面が表れる場合があります。』
『あなたの性格のイヤな部分、、改善せよ!との警告なのかもしれません。』
ふむふむ....、あの当時もしかしてそんな状況だったかも、、そうそう、未熟だったよ、あたし、ほんとイヤな奴だったし....。
昔の自分を思い出して反省したり納得したり、為にはならないが害もなく、なかなか平和で楽しい暇つぶしだ。
つい先日、久しぶりに「ふへ〜?」な夢を見たので、早速夢占いでチェックしてみた。
『恋愛運は上昇の傾向です。』
『あなたが積極的になっているしるしです。、、また、恋愛面でも明るい兆しです。』
えぇ〜っ? そんな筈ない、絶対ないない(*o*)
占いだからってこういう間違いは困るなぁ、びっくりして体に悪いわぁ、、。
その3日後、また違う変な夢を見た。( 続けて見るなんて珍しい。)
『これから素敵な恋をしよう、と思っているしるしです。』
『音楽を聴いている夢は、恋愛の願望を表します。』
ど、どうしたんだ....?(~_~;;
一抹の不安が忍び寄る。「もしかしてあたし、、。」
フロイトやユングも夢は精神分析で重要だって言っているし、無意識で「素敵な恋をしよう!」なんて願っているのか、私は。
ここ久しく微塵もそんな事を思った覚えが無いのに、深層心理ではまったく違う自分があ〜だこ〜だ考えているとか、もしそれが本当ならこれはホラーだ、悪い夢だ!
その日以来、平和な毎日が謎と恐怖にかき乱されている(笑)。
ホラー・SFファンとしては次の展開に期待したいところだ。
私の中の誰かとか、もう一人の私とか、異次元の私とか、パラレルワールドの私とか、未知との遭遇とか、、。果たして謎は解明されるのか !?
……あれ?
2016年
2月
20日
土
リズム
今、一番考えている事はリズムだ。
ここ最近やっと右手の薬指と子指に力がついてきて、フレーズを弾きながらよろよろする事が少なくなった。
でも、鍵盤が重いグランドピアノだったりするとまだまだヘタレる。
指に十分な力がないと、タッチのコントロールが行き届かなくてガンガン強い音が出たり、Jazzのリズムが思うように踏ん張れない。
グランドピアノを弾く機会が増えた事で、そんな初歩的な事がようやく致命的な欠点だと気が付いた。絶対克服しようと決心した。
まずは、一人で安定したスイング感が出せる事。
そもそも、4ビートちゃんと理解してるんだろうか、わたし....?
そんな自信の無さはちゃんと音に出る。
Jazz Pianoを弾こうとすると、コード・ボイシングやスケール、アドリブのやり方とか、リズム以外にいろいろ勉強する事が多い。
けっこう頭も労力も時間も使う。
そして、何とかまがりなりにもアドリブをこなせるようになると、何故かむくむくと”できちゃった感”が生まれる。”いい気”になっちゃうのだ(笑)。
そしてある日、共演するメンバーから強烈なダメ出しを食らう、、。基本的なリズムのアンサンブルー共有ができていないのだから言われて当然のことだ。
これはかなりダメージが大きい (-_-;; 辛くて胃が痛くなる....。
でも、言ってくれた事は全部本当の事なので丸ごと聞くしかない。努力して改善するのみだ。
一番大事なのは、リズム。そしてたぶん、一番楽しいのもリズムだ、きっと。
2016年
2月
09日
火
どっちが、、。
以前ヤマハのエレクトーン講師をしていた時に、ホンの短い期間だったが千葉にいた事があって、子供たちのエレクトーンコースを1クラス担当した。
最初に新潟出身だと自己紹介したら、子供だから無邪気にいろいろ質問してくる。
「先生んちはお百姓さん?」
「冬には雪が屋根まで積もるの?」
「先生はスキーが上手?」等々だいたい既定路線なわけだが、1つびっくりする質問があった。
「新潟と千葉と、どっちが田舎?」
田舎について、それまでちゃんと考えた事がなかった。
田んぼや畑がのどかに広がり、小さな川のほとりで鳥がさえずる。雨が降れば森の木々がざわめき、どこかで大きな木の上に雷がどか〜んと落ちる…、なんてベートーベンの交響曲『田園』みたいなのが田舎だとずっと思っていた。
少なくとも、新潟にはバスの走る大通りもあれば大きなデパートやショッピングモールもある。お洒落なお店がいっぱいあるし、流行のファッションに身を包んだ女性もたくさん歩いている。
多少、東京に比べれば見劣りするかもしれないが、、。
「絶対に、新潟は田舎ではない!」
と私は確信する訳だが、どうも子供たちの「どっちが田舎?」の”田舎”はそういう意味ではない。むしろ”どっちが”が重要ポイントなのだ。
ニューヨークより東京が田舎、東京より千葉が田舎、千葉より◯◯が田舎という具合に、比べてみて見劣りする方が”田舎”という事らしい。
つまり、”田舎”認定すなわち格下という事だ。
へ〜、面白い事を言うなぁ、なんて思っていたら、この問題は大人も含めてけっこう根深いのだ。
例えば、
・千葉と埼玉で合同イベントをやる場合「千葉・埼玉大会」か「埼玉・千葉大会」かでマジにもめる。
・茨城と一緒にされる( チバラギとか )のを極度に嫌がる、その割に神奈川県にはあっさり負けてしまう( 負けっていうのがよく分からないが...ー.ー? )。
・”田舎者”とか”田舎くさい”という言葉に非常に敏感に反応する。
新潟人からすると、なかなか興味深い経験をした(笑)。
なまじ大都会の周辺に生まれると小さい頃から苦労が多いのだなぁ…、なんて人ごとと思って見ていたけれど、こういう生まれた土地から来る対抗意識、私は嫌いじゃない。むしろ、ちょっと羨ましかったりする。
大阪のタクシーの運転手さんは「お客さん、東京から?」の質問の後、だいたいが軽妙な関西弁で大阪自慢を始める。
神戸の友人たちは「大阪とは違うから!」という点で見事に一致団結している(笑)。
そんな「あそこと比べてうちは」的な競争心は、新潟の県民性の中にあまりない。
新潟には美味しい米も水も魚もお酒もあって、自慢できるものがたくさんある。他県の人も大いに認めてくれている。
だからとりたてて他と競争しなくても…、という事かもしれない。”田舎”認定に怒る人もまずいないだろう。
そもそも、”どっちが”と考える事を普段から殆どしないような気がする。
他の土地と競うという習慣がないのだ。
だから、「新潟と千葉と、どっちが田舎?」とオール千葉を背負って果敢に質問してきた小さな子を思い出して「ほう、なかなかあっぱれ!」と笑ってしまった。彼女は千葉人として挑戦してきたのだ。
あの時の私が、彼女が千葉人を自覚するくらいに新潟人を自覚していただろうか、と思ったら、残念ながら恥ずかしいばかりだ。
「新潟は田舎じゃないよ〜^ ^;;」と思うばかりで、、。
でも、そんな暢気さがまた新潟人らしいのだろうな。
あれ、昔の思い出話が県民論になってしまった、、。
こんな狭い日本だけれど、ちょっと考えただけでまぁいろいろあるもんだ(笑)。
2016年
1月
31日
日
雪のこと。
ここの所、東京は久しぶりの雪で結構な騒ぎだ。
新潟出身者からすると、日本は広いなぁとぼそっと思う。
このくらいの雪でニュースになるって、まるで外国にいるようだ。
私が生まれた町は湯沢や十日町といった豪雪地帯からはとても遠いので、さほどの大雪は降らない。
でも小さい頃、朝起きて窓を開けると一面の銀世界で、ピンと張りつめた冷たい空気の中、陽の光を反射してキラキラ輝く真っ白な雪を眺めて、泣きたいような笑いたいような気持ちになった事は幾度もある。
たぶん、新潟の人の人生は雪と切っても切れない
新潟の冬。
朝起きると外は猛吹雪。あられ混じりの雪と息もできないくらいの横殴りの風。
通学通勤の老若男女は、ただ黙々と普段通りに学校や職場を目指す。父は車通勤だったが、命の危険を何度も感じたと言っていた。
私もそんな日の朝は、「わ、やだなぁ…。」と思いながらも『明日に向かって撃て!』のラストシーンみたいに(笑)、玄関から外へ頭から飛び出して行く。
天気に文句を言ってみても何になるだろう?
先日、東京で雪が降った時、大学は休講にするべき!・なんで社長は自宅待機を決断しない?といった書き込みがネットにあふれた。
まぁ交通網の規模と状況が違うから比較はできないのだが、そうした書き込みを読みながら、新潟人気質、雪国の人の気質みたいものをちょっと思った。
2011年の大震災。
被災した東北の人たちが見せた信じられない程の我慢強さと秩序正しさに世界中の人が驚いた時、私は日本人がもともと持つ美徳と同時に、雪が降る土地特有の考え方みたいなものがその根底にあるんじゃないかと思った。
困難にあった時、まずは一旦すべてを受け入れるというか、目の前の事実を”諦め”と共に冷静に認めるというか、、。
そんな偉そうな事を言っている私は、20代で新潟の冬から逃げ出した。
真冬の日に見た湘南の青い海が、どうしても忘れられなかった…。
でも、どんなに離れても小さい頃の雪の記憶は消えない。
東京に雪が降った朝、ベランダの手すりにうっすら積もった雪を見てすごく嬉しくて、思わず窓をあけて『もっと降れ〜!』なんて心の中で叫んでいた(笑)。
2016年
1月
26日
火
一月という事で。
年頭にあたり、今年の目標を考えてみた。
とは言ってもすでに二十日以上過ぎている、、。
お正月は帰省せず、東京でダラダラのんびりしていたら、松の内を過ぎた頃からいろいろあってバタバタ忙しくなってしまった。
そんな中、18日に新潟に帰る予定だったのだが、東京は朝から大雪が降った。
予約していた高速バスは運行中止だし西武新宿線は止まっているし、中央線は物凄い遅れだし上越新幹線は大丈夫なのかネットでずっと調べて、ようやく午後になって電車も回復しているだろうと東京駅に向かうことにした。
予想に反して、中央線は間引き運転のせいか朝の通勤ラッシュ並みに超絶混んでいて、荷物ごとぎゅうぎゅう押しつぶされそうな勢いだ。
たどり着いた新幹線はガラガラにすいていたが、朝からの大混乱大格闘で精根尽き果て、コーヒーセットのケーキを頬張りながらぐったりしていたらあっという間に新潟に着いた。
高速バスに慣れた身としては信じられない速さだった(笑)。
実家に帰っても一人だが、高校時代の同級生たちや何十年来の気心知れた友達、久しぶりに再会して近況を報告しあった友人や最近親しくなった近所のお友だちが連日付き合ってくれて、めちゃ楽しい時間を過ごした。
東京の大雪のことなどすっかり忘れてしまっていた。
年頭から山あり谷ありで、ぼっとしていたら今年の目標をまだ考えてなかった事に気が付いた。
さて、2016年。
今年は”なんとなく良い感じ”がする ^-^
まず、2と0と6っていう丸々した数字がいいなぁ....。平成28年の8も丸い。
閏年はちょっとスペシャル感があるし、干支のお猿は愛すべきお笑い系キャラだ。
「気持ちをおおらかに持って、心の角を取って笑って過ごしなさい。」なんて言う声が天から聞こえた気がした。
という訳で、今年の目標は『生活を楽しむ』。
都内の散歩とか旅行とか、今までほとんど考えたことがなかったけれど、面白そうな計画を一つたててみようかな。
一年、楽しいことをいっぱい考えて笑顔で暮らせますように!
このブログを読んで下さっている皆さまにも、素敵な一年でありますように!
今年もどうぞよろしくお願いします。